key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

遠い星

『遠い星』67

重なっていた唇が離れた後、名残惜しげに開いたままのそこから舌先がちらりとのぞいていた。 伊角はいつものように、はぁ、と、溜息のような呼吸を一つした。 緒方はちらりと見えただけの濡れた赤に動揺した。 組み敷いたときに出来る肩胛骨のあたりの陰の揺…

『遠い星』66

「今日は何回戦?」 楊海が訊いた。ビールを飲んでいた伊角は、慌ててコップを下ろし、「まだ一回戦です」と答えて控えめに微笑んだ。 「こっち来られそう?」 「あと五回ぐらい勝てれば、たぶん」 少々意地の悪い問に対し、伊角はそう答えて声を立てて笑っ…

『遠い星』65

翌日。午前十時頃にアキラは緒方のマンションを訪れた。彼は庭先で切ってきたらしい花数本と、小さな菓子折を「沙織さんへ」と差し出してきた。 「それで、今日はなんの話だ?」 アキラは目前におかれた茶碗に軽く礼をし、「父のことです」と言った。 「誰に…

『遠い星』64

芦原はそのビルに足を踏み入れると、まっすぐにエレベーターへ向かった。 あいにくエレベーターは上昇中であったが、特に急ぐ用事でもなかったので、ボタンを押したまま、彼は気長に待つことにした。 やがて自動ドアの開く音がし、彼は顔を上げた。中には彼…

『遠い星』の今後について

先日公開した分で、オフ本の3巻まではだいたいオンラインに乗っかったことになります。 基本は「ブログ掲載→改稿し、オフ本化」なのですが、3巻に限っては、先にwebに載せる時間的余裕がなく、本に掲載した最後の方は掲載順が逆転してしまいました。 3巻…

『遠い星』63

二人が次に連絡を取り合ったのは、三ヶ月ほど後のことだった。 「会いたい」という伊角の連絡を受け、緒方はまた同じホテルの同じ部屋を取り、その時には伊角の希望通り、彼を丸ごと自分のものにしてやった。 そうして何となく二人で会うときのルールが出来…

『遠い星』62

緒方が何気なくポケットに手を入れたら、指先が小さな袋に触れた。 取り出してみると、先日楊海から渡されたフォーチュンクッキーだった。渡されたときのことを思い出しながら、彼が物思いに耽っていると、背後から「なんですか」と声がかかった。緒方は振り…

『遠い星・61』

緒方が伊角に電話をしたのは八月に入ってからのことだった。名人戦リーグの最終局、名人への挑戦が決定したこの日、彼は決心して電話を入れた。昼に雨が降り、蒸し暑い夜だった。 電話に出た伊角は、意外そうな声を出していた。 緒方は伊角を、前回待ち合わ…

『遠い星』60

茫然自失だった伊角をホテルに置き去りにした日から、しばらくの間、緒方のところに伊角からの連絡はなかった。 緒方も忙しい日々が続き、対局の日にも同じ会場になることがないので、気にしつつも連絡を取ることはなかった。 連絡は取れなかった。 伊角に何…

『遠い星』59

「しっかりした子だよね」というのが、緒方の周囲での伊角の評価だったが、緒方は伊角慎一郎という男のことを深く知るにつれ、それには同意しかねるようになった。 表だってはそんなことは口にはしない。研究会の席などでは、伊角は年配者に気配りを欠かさず…

『遠い星』58

「近々そっちに行くんで一局どうですか」と楊海から突然連絡が来た。 緒方は多忙な時期でその日も予定が入っていたが、伊角のこともあり、楊海ともどうしても顔を合わせておきたかった。 顔を合わせてみても、楊海になにか聞けるわけでもない。伊角が必死に…

『遠い星』57

打っているときには、当面の対局のことだけ考えていればいい。 とても単純な理屈だ。当たり前のことだ。しかし以前の伊角にはそれが出来なかった。 だからそれを教えてくれた人には、どんなに感謝しても足りない。そんな風にいろいろな人の助けを得て手に入…

『遠い星』56

「伊角慎一郎君ですか」 成澤はその時、彼独特のどこかおっとりとした口調で電話の相手を確認すると、伊角には一言挨拶だけさせて、「伊角君、僕ね、また腰を痛めてしまって、中国へ行けなくなってしまったから、君、代わりに行ってください」と、告げた。 …

『遠い星』55

「それでどうしてたの?」 地下鉄のホームで奈瀬は突然会話を再開した。 「どう……。中国行ったり」 「それは知ってるけど。その前は?」 「普通に学校行ってたかな。卒業かかってたし。毎日補習ばっかで死にそうになってた」 「打ってた?」 彼女の質問を受…

『遠い星』54

「伊角くん」 軽く肩を叩かれて、はっと気付くと奈瀬がいた。伊角は目を瞬かせながら、頬杖を外した。 「終わったのか」 「うん。伊角くんは?和谷待ち?」 「いや、今日はそうじゃないんだけど。和谷、まだいた?」 「まだ粘ってたよ。確か」 奈瀬は自分が…

『遠い星』53

緒方から呼びつけられたのは、ある寿司屋だった。 店に足を踏み入れて中を見回した伊角が、緒方の姿のないことに気付いて、戸惑いつつ尋ねてみると、緒方は二階にいると告げられた。すぐに年若い従業員が出てきて、彼を二階に案内した。小さな座敷で、緒方は…

『遠い星』52

待ち合わせ自体が夜であり、しかも二人ともに翌日は朝からの予定があったため、二人はその時珍しく対局をしなかった。食事のあとには適当な話をしながらとりあえずホテルの最寄り駅まで行き、途中通りかかった店にふらりと立ち寄り、またそこでも話をした。…

『遠い星』51

対局日だった。 伊角が休憩で一息ついていたら、珍しく公衆電話からの着信があった。 携帯電話を持っていない末弟が家の鍵でも忘れたのかと思い、伊角はそのまま電話に出た。聞こえてきたのは、楊海の声だった。 突然のことに慌てつつ居場所を尋ねてみると、…

『遠い星』50

「さっきの子、楊海さんが好きだったんです」 食器を下げて戻ってきた緒方に、伊角はぽつりと告げた。 「部屋にグラビアが張ってあって。一息ついたときとかに、そっちをぼけっと見てたんですよね。すごく嬉しそうな顔しながら」 伊角の向かいに腰を下ろした…

『遠い星』49

翌朝。伊角は目を覚ましてすぐに自分が知らない場所で寝ていることに気付き、あわてて身体を起こした。ぐるりと見回してみると、昨日着ていたスーツが彼の真後ろの鴨居につるされていた。事情がわからない焦りに、血の気がひいた。 とりあえず身支度をして、…

『遠い星』48

訝しげな表情をしている伊角に適当な話題を振って、その場は話を誤魔化し、やがて彼らは河岸を変えた。 「あ、そうだ」 九星会の打ち初めのことを話していた伊角は、突然なにか思いついたように、声を上げた。 「先生。先生にもお話伺いたいことがあったんで…

『遠い星』47

伊角から声をかけてくるときには、彼が楊海のことを緒方に語りたいと言うことだ。緒方が伊角の秘密を暴いてしまってから、伊角は楊海のことを隠さなくなった。 緒方は伊角を連れて市ヶ谷の本院を離れた後、あまり棋士仲間の立ち寄らない界隈にある店を選んで…

『遠い星』46

新年があけて二日、緒方と伊角は目黒で顔を合わせた。 目黒にあるホテルの主催する新年のイベントで、囲碁の公開対局が組まれていたのである。緒方は公開対局の解説者として呼ばれており、伊角は対局後に行われる多面打ち指導碁を手伝うことになっていた。 …

『遠い星』45

「飯島のコンプレックスって、結局伊角君なの。伊角君に一度も勝てなかった。自分が一度も勝てなかった伊角君があれだけ頑張ってプロになれなかった。……まあ今はプロだけどね。飯島だって一組にいたんだし、特別弱かった訳じゃないでしょ?プロ試験でだって…

『遠い星』44

奈瀬が終電で帰るというので、その日の話の流れから、伊角が護衛役をすることになった。もっとも、その場に残っていたメンバーの中で、その時間までにまともな思考力を保っているものは他にはそれほどいなかったのだが。二人は同じ方向でもあったので、伊角…

『遠い星』43

伊角のその年の打ち締めは、和谷研になった。 いつもはだらだらと昼頃に開始される研究会なのだが、その日は朝の九時に集合、九時半から対局になった。その日行われた対局は伊角・冴木戦と門脇・越智戦の二局のみ。対局が終了し、検討が終わり次第、その日は…

『遠い星』42

沙織は元から交渉の絶えていた緒方の肉親よりも、塔矢夫妻と親しく付き合うようになった。特に塔矢夫人である明子は沙織のことをいたく気に入った様子で、ある時などは緒方が所用のために塔矢邸へ出向いてみると、何故か沙織が茶の間にいたなどと言うことも…

『遠い星』41

結婚の打ち合わせは、緒方の対局の合間をぬって行われた。 結婚をごく私的なものととらえ、簡素にすませたいという点で、緒方と沙織は一致していた。沙織の父は娘のためにそれなりの体裁を整えてやりたいようだったが、結局は当人たちの意向を受け入れた。彼…

『遠い星』40

緒方はその頃しばしば奇妙な感覚に陥っていた。芦原といると伊角を思い出し、伊角といると、芦原を思い出すのだ。それでもどちらがより彼の心を悩ましていたのかと言えば、それは伊角の方だった。 伊角の秘密は、あの芦原でさえ真剣に口止めを頼んできたよう…

『遠い星』39

碁会所『囲碁サロン』の事務室で、緒方が煙草を吸っていると、芦原が顔を出した。緒方の顔を見ると、彼は頭を下げ、「珍しいですね」と言った。 タイトルに本格的に絡むようになってから、緒方が碁会所へ顔を出す機会はかなり減っていた。アキラも最近までは…