key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』63

 二人が次に連絡を取り合ったのは、三ヶ月ほど後のことだった。
「会いたい」という伊角の連絡を受け、緒方はまた同じホテルの同じ部屋を取り、その時には伊角の希望通り、彼を丸ごと自分のものにしてやった。
 そうして何となく二人で会うときのルールが出来た。
 どちらが連絡をするにせよ、二人はいつも同じホテルで待ち合わせ、可能な限り同じ部屋を予約した。また、伊角は緒方と二人でいるときには、最初の確認どおり、すべて隠さずに話をするようにしていたようだった。
「お前はどんな風にして欲しいんだ?」
 二人がお互いの身体になれてきた頃、緒方はそう尋ねたことがあった。
 伊角は、「好きなようにしていいですよ」と答えた。行為を終えて、緒方の横にぐったりと身体を横たえたまま、緒方に投げてきた視線は、妙になまめかしい。緒方の目に、それは彼の中に蓄積されてきた欲望の残滓のように見えた。
「オレは先生しか知らないし。満足してます。部屋で一人でやるより全然いいと思う」
 そうして伊角はけだるげに腕を上げ、緒方の左手をとった。
 伊角は緒方の手が気に入ったらしい。緒方が指先で頬をなでるとうっとりと頭をもたげ、彼に貫かれて身体を揺すられながら、指を噛みたがる。
 されるがままにしていたら、伊角は緒方の人差し指を口に含んだ。指先は生暖かく柔らかな粘膜に包まれ、舌先でねぶられる。くすぐったかったが、緒方はそのまま伊角に指を預けていた。
「俺の手は、似てるのか」
 伊角は不思議そうに目を上げ、緒方の指を解放した。
「彼の手に、似ているのか?」
 伊角は少し考え込み、「いいえ」と答えた。
「楊海さんの手は、もっと掌が大きくて、指も太いし、爪がすごく硬いんです。先生の手の方が、ずっと綺麗ですよ」
 そう言い終えると、伊角はまた彼の手を取り、いとおしげに掌にくちづけて、指先に食いつこうとした。緒方はとっさに手を握り込んだ。
「じゃあ、駄目だろう。オレは、彼の代わりなんだろう?」
 伊角は小さく口を開けたまま彼を見た。訝しげな視線だった。
「お前は、オレに彼の代わりをさせたいんだろう?」
 伊角はじっと彼を見つめていたが、しばらくして「いいえ」と答えた。
「楊海さんがどんな風にするかなんて、オレは知らないし。先生にもそんなことしてほしいと思ったことはありません」
 そこまで言うと、伊角は唇を舐め、躊躇うように僅かに目を伏せて、
「オレは先生のことを覚えたい」
 と、言った。
「だから、先生の好きにしてください」
 その言葉通り、伊角は積極的に緒方を求めてきていたし、緒方がどんな要求をしても、拒むことはなかった。ただただ肉体の快楽を求め合う関係を、緒方はこれまで結んでいたことがあったけれど、その時々に付き合っていた彼女たちと比較しても、伊角は淫らな部類に入ると思われた。もとからそういう素質があったのか、それともわざとやっていることなのか、伊角自身にもおそらくわかってはいないだろう。ただ、わざとやっていることだとすると、開き直った人間というのは、恐ろしいものだと緒方は思った。簡単に言えば彼のしていることは、自分の中で楊海のかかわる部分、かかわりそうな部分をすべて塗りつぶし、緒方の色を強引にそこにのせると言うことだ。緒方にはそれが自傷行為と同じように思われていた。
 どう考えても自分には何一つメリットのないこの関係をうけることにしたのは、やはり伊角が壊れた現場に居合わせてしまったと言うことが大きかった。彼の秘密を知っている緒方と一緒にいたからこそ、あの日彼は空っぽになるほど泣くことになったのだろう。そもそも自分が余計な詮索などせずにいれば、おそらくああはならなかった。そう思うと、彼は自分勝手な心情から伊角の秘密を暴いてしまったことに対して、多少の責任も感じる。おそらく彼は、あの晩に、伊角に呪われてしまった。そんな気もした。
 芦原のことにしても伊角のことにしても、重大な場面に居合わせてしまうと、結局捨てておけないと言うのが、自分の悪いところだと言うことを、緒方はつくづく感じることになった。これは楊海になじられても仕方がないと思った。
 伊角は彼を好きかも知れないが、愛してはいない。緒方も伊角のことなど愛していない。彼が伊角に対して確かにあると思うのは、憐憫の情だ。愛して欲しいというものを、哀れに思うから愛してやる。そんな気持ちで、緒方は伊角の相手をすることにした。
 そうして時々会うことの他には特に何をねだることもなかった伊角が、珍しく興味を示したのが、緒方の結婚指輪だった。見てみたいと言われて、「見るだけなら」と持参した緒方に、伊角は、「これ、くれませんか」と、突然言った。
 緒方は流石にぎょっとした。
 沙織と自分の結婚指輪を何故伊角が欲しがるのか、理解できなかったのだ。
 指輪が欲しいのかと思い、買ってやろうかと提案もしてみたが、伊角は譲らなかった。それどころか、どうかと思うくらい真剣な目で「これが欲しい」と言い出した。
 それで緒方はあきらめた。
 伊角がその時のような目をしているときには、彼の意志が揺らぐことはないのだ。伊角が彼に新しい関係を提案した時にも、伊角は同じような目をして彼を見つめてきた。
 それでしかたなく承知をした。
 伊角は「大切にします」と言った。
 伊角が彼の結婚指輪に執着したわけは、その後も緒方にはわからなかった。けれど、その時の伊角の言葉は信じることが出来た。それまでの付き合いから、伊角は自分で決めたことは必ず守る人間だと思っていたからだ。どういう意図があるかはわからないけれど、気が済んだらきちんと返してくるだろうとも思った。
 緒方は恭しく伊角の手を取ると、式のまねごとのようにして、彼の手に指輪を填めてやり、額や唇に軽く触れるキスを落としてやった。伊角が本来そうしてほしいだろう人間の代わりのつもりだった。
 緒方の指輪は伊角の指にすんなりと収まった。
伊角は不思議そうな表情で自分の左手を見つめていた。小さく開けられた口元は、微かに微笑んでいるようにも見えた。緒方と二人で会うときにはわりに暗い表情をしていることの多い伊角が、いくらかでも明るい表情をしているのを見て、緒方も悪い気はしなかった。
 それから伊角は緒方と会うときには必ずその指輪をしてくるようになった。対局で見かけるときなどには見えないので、彼と会うときにだけ、して来ているらしい。そのことを知ったとき、緒方はやはり彼に指輪を買ってやろうかと考えた。イニシャルが同じと言ったところで、他人の指輪には違いない。ただ保管しているなら話は別だが、そんな風に身につけることになにがしかの意味を伊角が見いだしているのなら、持つのは彼自身のための指輪の方がいいに決まっている。
 タイトル戦で地方に出た際にそのことを思い出して、緒方はふらりと宝飾店に立ち寄り、プラチナの指輪を頼んだ。
 伊角の名前の頭文字を入れるよう頼んだあと、「送り主の方は」と、記入を促されて、緒方はしばらく躊躇った後、自分のイニシャルを書いた。自分の結婚指輪を伊角に見せたときにも思ったが、沙織と伊角のイニシャルがおなじになるというのは、随分奇妙な巡り合わせだと感じた。
「日付はどうなさいますか」
 聞かれて初めてはたと考え込み、緒方はスケジューラをたどって、結局、伊角と新しい関係をもつことになった、前年の夏の日付を入れた。
 この新しい指輪を、伊角はどう思うだろう。前回と同じ程度には、伊角を喜ばせることが出来ればいいのだけれど。配送伝票に書き込みをしながら、緒方は以前指輪をはめてやったときの、伊角のささやかな喜びの表情を思い出していた。