key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』40

 緒方はその頃しばしば奇妙な感覚に陥っていた。芦原といると伊角を思い出し、伊角といると、芦原を思い出すのだ。それでもどちらがより彼の心を悩ましていたのかと言えば、それは伊角の方だった。
 伊角の秘密は、あの芦原でさえ真剣に口止めを頼んできたようなことだ。至極私的な事情であるし、本人が言い出さないものを無理に聞き出すのはどうかと緒方も思う。しかし無粋も承知の上で、そのとき彼が伊角に「お前、もしかすると、その彼が好きなんじゃないか」と問いかけたのは、彼がその頃伊角といるときに感じていた居心地の悪さを解消したいという思いがあったからだ。
 しかし、その言葉を聞いた伊角の表情が一瞬で硬直したのを見て、緒方は動揺してしまった。外見では平静を装いつつ、緒方は心のどこかで、自分の推測が伊角から明確に否定されることを期待していたことに気づいた。
 店内の薄暗い照明の下でも、伊角が青ざめてしまったのはわかった。見開かれたまま緒方に向けられていたまなざしは、やがてゆっくりと伏せられた。
「別にそんなにビクビクしなくてもいいよ。だからどうだって言う訳じゃない。ただ、事実を確認したかっただけだから」
 緒方の言葉は、伊角のためと言うよりも、予想以上に相手を追い詰めた自分をいくらかでも正当化するためのものだった。
 伊角は口元をやや引きつらせながら、「……どうしてわかったんですか」と力のない声で問いかけてきた。
「あの、……オレ、なにかそれっぽいこととか言いましたか?」
 付け加えられた声は僅かにふるえていたようだった。
「いや、言ってないんじゃないか」
 伊角は眉をひそめている。緒方は煙草を吸う素振りで、伊角から目を背けた。
「でもそうなんだろう?」
 伊角は黙っていた。
「なんとなくわかるんだよ。匂いがするでもないけど、……わりに近しいのに、やっぱりそう言うのがいてな。縁があるのかも知れない」
 その言葉に反応したのか、伊角はちらりと目を上げた。
「なんだ?」
「……あの、オレ、別に……」
「オレには別に関心ないんだろう?」
 伊角は申し訳なさそうに「……はい」と答えた。
「別にいいよ。それほど自惚れちゃいないし。オレだって女はどれも大差はないと思うが、だからって何でもいい訳じゃない」
「……そうですか」
「そうだよ」
 緒方はバーテンダーにお代わりを頼んだ。
「ただ、楽になるかと思って確認しただけだ」
 緒方の言葉に、伊角はゆっくりと顔を上げた。
「楽……?」
「いつも何か迂回するような話し方をするからさ」
 間をとるために、彼はグラスを手にした。
「お前の中にブラックボックスがあるのがなんとなくわかるんだよ。オレは個人的にそう言うのが気持ち悪くて仕方がないんだ」
「……それじゃあ、先生には秘密はないんですか?」
「ないね」
「……誰にでも秘密の一つや二つはあるんじゃないですか」
「オレはない」
「……まいりました」
 本当に観念したような伊角に、緒方はつい苦笑した。
 自分に秘密がないわけがない。むしろ秘密だらけといえるのかもしれない。それなのに即座に「ない」と答えられるのは、後ろめたさの裏返しだ。単なる誤魔化しなのだ。それも見抜けない伊角のひとの良さは滑稽だったし、そんな風に即座にごまかせる自分はもっと滑稽だと思った。
 緒方が改めて確認すると、伊角は先ほどよりもいくらか緊張の溶けた様子で事実を認めた。伊角は芦原のような気の紛らわし方をするでもなく、自分の秘密については誰にも明かしていないようだった。
 帰宅後。緒方が風呂から上がってみると、伊角からのメールが着信していた。「今日はありがとうございました」という文面を、彼はじっと見下ろし、しばらく物思いに耽った。