key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』58

 「近々そっちに行くんで一局どうですか」と楊海から突然連絡が来た。
 緒方は多忙な時期でその日も予定が入っていたが、伊角のこともあり、楊海ともどうしても顔を合わせておきたかった。
 顔を合わせてみても、楊海になにか聞けるわけでもない。伊角が必死に隠そうとしていることを、敢えて暴いて見せるほど、彼も無粋ではないつもりだった。何も言えないが、楊海がどう言うつもりでいるのか、会話の端々からでもなにか感じ取りたいとは思っていた。
「先生、お疲れみたいですね」
「まあな」
 いかにも面白くなさそうに返答すると、向かい側から銚子を持った手が伸びてきた。緒方は黙って酌を受けた。
 杯を置いてため息をついていると、楊海が彼の目の前に、小さな袋菓子を置いた。
 緒方は頬杖をついたまま、それを訝しげに見下ろしていた。フォーチュンクッキーだった。
「なんだ?これは」
フォーチュンクッキー。先生にあげます」
 緒方は訝しげにしたまま、その袋をつまみ上げた。
「今日の昼飯食った店で貰ったんですよ」
「日本に来てまで中華料理か。愛国心にあふれてるな」
「棋院の子供のお土産です。前に一度買っていったら、やつらおもしろがっちゃってね。また買ってきてくれって。それで買い物した店でついでに飯食ってきたんです」
「一人で?」
「伊角くんと行ってきました」
 楊海の言葉に、緒方はやや目を伏せた。
「……よく二人で飯を食いに行ってるみたいだな」
「ええ」
 返す言葉を思いつかず、緒方はクッキーの袋をしばらく弄んだ後、ジャケットのポケットにしまい込んだ。
「実際それくらいしか出来ることないですから」
 緒方はポケットに手を入れたまま、顔を上げた。
「何?」
「普段近くにいるわけじゃないし、いまだにすごく慕ってくれてるし、いい顔されたらまた誘いたくなりますよ」
 緒方は頬杖をついたまま楊海を見つめていた。楊海はもしかすると伊角の気持ちに気付いているのかと思ったのだった。
「お前たちは、いったいどういう関係なんだ」
 杯を干して、緒方は呟くように尋ねてみた。楊海は「さあ」と言って笑っていた。
「ただの友達と言うよりは師弟に近いんでしょうが……」
「師弟?」
「オレはそんな気はないですけど、伊角くんはたぶんそんな感じですよね。そんな目で見られていることがあるような気がする」
「じゃあ、お前はどういう気持ちで見てるんだ」
 楊海はまた静かに笑っていた。
「正直なんて言っていいのかよくわからないですよ。友達とも違う気がするし、……それが一番近い気はするけど……、弟?違うな」
 楊海は杯を乾し、一息ついた。
「どうしてるか気になるし、かわいいですよ。やっぱり。前にも言いましたけど」
 楊海はなにか思い浮かべているような風情で薄く微笑んでいた。
「先生には笑われちゃうと思うんですけど、オレは伊角くんから「いい人」だと思われていたいんです。それで結構気を遣ってたりするんですよ。彼の持ってるイメージを壊さないように」
「どうしてそんなことをする必要があるんだ。別にいいじゃないか。何も考えずにそのまま接していたって、なんの不都合がある」
「不都合は……本当はないのかも知れないけど、でもオレは所詮は彼の人生のいい思い出のひとつとして収まるべき人間だと思っているんで、あんまり汚いところとかは見せないでおこうかと。将来的には「いい人だったな」ってことだけで、後は綺麗に忘れてもらえればいいと思うんです」
 緒方には楊海が嘘をついているようには思われなかった。
「……もし、伊角が」
 思案中、思わず口をついて出ていた。緒方は動揺してすぐに口を閉じたが、楊海は気付いたようだった。顔を上げ、緒方の言葉を待っている。
「……伊角が、お前の考える以上に、お前のことを慕っていたら、どうする」
 楊海はまず深く嘆息した。
「だから上手く距離をとろうとしているんじゃないですか」
「別にいいじゃないか。無理して距離なんかとらなくたって」
 楊海は曖昧なうなり声を上げていた。
「オレね、彼には心を開かれてないと思うんです」
 唐突な言葉に、緒方は笑った。
「まさか。それはないだろう。だってお前が呼び出したら、いそいそ出かけてくるんだろう?」
「でもオレに腹を割ってくれるわけじゃないんですよ」
「あいつにどんな秘密があるって?」
「例えば、18の年にどうしてプロ試験に落ちたのか、とか」
「そりゃ、白星が足りなかったからだろう」
「表面上はそうですよ。棋院のサイトに戦績のってましたよね。たしか彼が中国棋院に来る前にオレも見ましたけど、後半に崩れて足りなくなった。彼は自分が負けた理由を精神的な弱さだと言っていました。でもそれ以上は何も言わない」
「誰にだって、秘密にしておきたいことの一つや二つあるだろう」
 楊海は手の中で猪口を弄びながら「まあ、そうだ」と呟いた。
「オレも先生もお互いに知らないことはある。でもだからってお互いにいらついたりはしない。どっちかというと、知る必要もないと思ってる。教えてもらえるなら一応聞きますけどね。さっきの話はただの例だけど、伊角くんにはっきり黙られたことが気になるのは奇妙だって言うのはオレもわかってますよ」
「かまわず聞けばいいじゃないか」
「はっきり顔に”これ以上は聞くな”と書いてあるものを、無理矢理聞くのはちょっと。……さっきも言ったでしょう?オレ、伊角くんには嫌われたくないんですよ。だからオレのことで余計なことは知らなくていいと思うし、伊角くんが知らせたくないなら、こっちは気になっても踏み込まないで置かないと。今みたいな時々顔を合わせて楽しく話の出来る関係ってのが、たぶん丁度いいし、それ以上になると、いろいろつらくなると思う」
「つらい?」
 緒方は訊き返したが、答えは返ってこなかった。
 結局その日は二人ともしたたか酔ってしまい、一局打つどころではなくなってしまった。宿泊先のホテルに向かうタクシーの中で、楊海は明日帰国すること、伊角が見送りに来ると言っていたことなどを話していた。緒方は適当な相槌を打ちながら、見送りの後はオレの出番かな、と鈍った頭で考えていた。
 楊海が気になるという伊角の隠し事はいったい何なのだろうか。もしそれが、伊角の恋にかかわることだとして、楊海はそれをどのように受け止めるのだろう。
 緒方自身はまだ冷静に受け止められたような気がする。ただ、それは自分が彼の恋の対象ではないとはっきりわかっていたからで、もし自分がその対象であったとしたら、どうであったかはわからない。
 ただ、伊角が自分の思いをひたすらおさえようとしているところを見ているからか、伊角自身に対して生理的な嫌悪感のようなものは沸いてこなかった。おそらく自分がその対象であるとしても、伊角をなんの未練もなくばっさりと切り捨てるような真似は出来ないような気がした。楊海を語る伊角の表情は、これまで緒方の目の前で自分の恋愛について語った男とも女とも、なにも変わるところはない。ただその相手が同性であるということだけが彼の特異点だった。
 彼の隣でうたた寝をしていた楊海は、タクシーが宿泊先のホテル前に停車した拍子に目を覚まし、いつもの軽い調子で挨拶をしてホテルの中へ消えた。
 楊海の性癖など、緒方は知らない。二人でいてもこれまでそんな話を交わしたことはないように思う。日本のアイドルタレントが好きだということは知っているが、だからといってそのことが異性愛者であることの証明にはならない。正直なところ、いまでもどうでもいいことに変わりはないのだが、よくある男同士のろくでもない話を、楊海とも少しはしておけばよかったと緒方は若干後悔していた。彼の私的な部分をいくらかでもわかっていたなら、伊角がつらい顔をしている時になにか優しい言葉をかけてやれるかも知れないのに。
 一人になり、酔いの中に沈んでしまいそうな頭の中で、緒方は今日の話を思い返してみた。
 伊角の秘密を知って、楊海は彼を拒むだろうか。
 何度目になるかわからない問をまたして、緒方は「もしかすると彼は伊角の告白を待っているのだろうか」と思いついた。しかしすぐにそれは打ち消した。都合のいいことばかり考えるのは、もう相当に酔っているからだと思った。