key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』57

 打っているときには、当面の対局のことだけ考えていればいい。
 とても単純な理屈だ。当たり前のことだ。しかし以前の伊角にはそれが出来なかった。
 だからそれを教えてくれた人には、どんなに感謝しても足りない。そんな風にいろいろな人の助けを得て手に入れた自分の生活はとりあえず順調で、そのことには何も不満はない。あるとすればそれは自分の力のなさに対してだ。もっと上手く打ちたい。強くなりたいと彼は思う。
 ただ対局を終えて現実にかえったときに、自分の中に穴のようなものがあることに気付く。じっとしていると、その穴を風が吹き抜けて、そのたび少し心が痛い。気のせいだと思い込もうとしたこともあったが、どうもそれは出来なかった。
 奈瀬から声をかけられる前、彼は考え込んでいたのではなく、対局後の虚無感に襲われていただけだった。対局に力を注いだことによる脱力とも違う。「虚しい」としか言いようのない気持ちで、力が入らないのだった。
 彼自身、なぜこんな風に空しさに襲われるのかわからない。
 否。わからないふりをしているだけだと、自分でも薄々気付いてはいた。
 欲しいものがあまりにも遠くにあるので、欲しいという気持ちを思い起こさないように、ただ目を背けているだけなのだ。ふと気付くと、遙か遠くにいる人のことを考えている。いまどうしているか。今日は連絡が来るだろうか。もうどれくらい顔を見ていないか。声を聞いていないか。自分のことを忘れられてはいないか。そう言う飢えた自分から目を背けるために、盤面に没頭しようとしている。そのことに気付くとひたすら虚しい。
 いくら誤魔化していても、結局は無駄なのだった。他の誰よりも、自分のことを楊海に評価をして欲しいと思う。もうこの穴は、他の誰にも埋められない。そのうちそんな気にもなってきて、ますます虚しさは募る。
「お前は我慢強いよな」
 緒方にそう言われると、半ば馬鹿にされているようで、伊角は複雑な気持ちになる。
「感心するよ。オレなら我慢できない」
 彼は目を伏せて唇を結び直すしかできなかった。
「当たって砕けた方がましだ。いっそすっきりする」
 その言葉に伊角の胸がちりちりと痛んだ。
 やめられるものならとっくにやめている。もし緒方がやめ方を知っているのなら、是非教えて欲しい。そんな皮肉めいた言葉を思い浮かべ、伊角は緒方も気付かないような静かなため息をついた。