key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』45

「飯島のコンプレックスって、結局伊角君なの。伊角君に一度も勝てなかった。自分が一度も勝てなかった伊角君があれだけ頑張ってプロになれなかった。……まあ今はプロだけどね。飯島だって一組にいたんだし、特別弱かった訳じゃないでしょ?プロ試験でだって結構いい成績出してたんだし。それでアマの中に入れば相当強い訳じゃない。でも、そこで勝ち抜いても飯島は全然満足できないの。出るところに出ればオレは駄目なんだって思っちゃうみたいなのよ。そんなの私だってどうしようもないじゃない。……なんかつかれちゃった」
 終電を待つ人でホームはにぎわっている。二人は電車を待つ人の列の後ろについた。
「それじゃ今は全然連絡取り合ってないのか」
 奈瀬は曖昧な笑みを浮かべるばかりで、返答をしない。
「……オレに勝てれば飯島は立ち直れるのか」
 伊角がぼそりと呟くと、奈瀬はすぐに「バカね」と彼をいさめた。
「そんなこと出来るわけ無いじゃない。対局したって勝てっこないのに。伊角君、自分があれからどれだけ強くなってるかわかってないでしょ。昔勝てなかった伊角君に今勝てるんなら、飯島だってとっくにプロになってるわよ」
 伊角は奈瀬に言い返す言葉を持たなかった。
「伊角君は、もしあの時ああだったらって思ったことない?」
「どういうこと?」
「例えばさ。伊角君が合格した後に、プロ試験のやり方変わったじゃない?それでさ、これは本当に例えばだけど、伊角君が院生やめちゃった年のプロ試験が今の方式だったら、とかさ。……伊角君はその前に合格出来てたから、考えたこと無いか」
「いや。そんなことはないよ。考えたことある」
 伊角が正直に答えると、奈瀬は安心したように微笑んだ。
「私、新方式になる前に合格したかったなって今でも時々思うの。でも自分がいまプロでいられるのは新方式になったからだとも思うし。試験の時にはこのチャンスを生かそうって考えてたしね。なんだか気持ち複雑なんだけど、でもそう言うのって自分で乗り越えていくしかないじゃない。自分だけの悩みなんだもの。伊角君だってそうでしょ?中国から帰ってきた後で、進藤のところに行ったんでしょ?」
「うん」
「私の悩みは私が解決するしかないし、飯島だって、自分で解決するしかない。飯島は伊角君にあう必要があると思ったら、たぶん自分から会いに来ると思う。私に連絡が来ないのは、たぶん私がいても仕方がないって思ってるんじゃないかな」
「……奈瀬」
「なに?」
「もしかして連絡待ってる?飯島からの」
「やだ。伊角くん、私がそんなかわいい女の子だと思ってるの?」
 奈瀬はけらけらと笑い、伊角の腕をぱしんと叩いた。
「そりゃ話ぐらいはいつでも聞いてやろうと思ってるけどね」
 更にふふんと鼻で笑うと、奈瀬は「伊角君はほんとに付き合ってる人いないの?」と彼に尋ねてきた。
 伊角は気圧されながら「付き合ってる人は、……いないよ」と答えた。
「じゃあ、好きな人は?」
 奈瀬の質問を適当に誤魔化す前に、伊角は口ごもり、赤くなってしまった。
「えー!だれ?私の知ってる人?」
「いや。奈瀬は知らない人……」
「へ〜……」
 奈瀬は珍しいものを見るような顔をして、その後ににやにやし出した。
「ああ、でも少しすっきりしたかも。伊角君に飯島の話できて」
 奈瀬は深呼吸をすると、「じゃあね。伊角君も頑張って」と席を立った。
 その後すぐに停車した駅で、奈瀬は降りていった。
 電車を降りた伊角の携帯電話に奈瀬からメールが入った。「今家に着きました。今日はありがとう。お礼に伊角君の話はみんなには内緒にしておくね」と、書かれていた。
 奈瀬は「飯島のことは誰にも話した覚えがない」と言っていた。伊角を始めとした仲間達の中で飯島の話を出しても、おそらく同情するものはいない。プロになってしまったものからしてみれば、院生時代の飯島の心情を理解は出来ても、途中でリタイヤしたことを評価はしないだろう。飯島自身もそれがわかるから自分たちには連絡を取らないのだろうし、奈瀬が口をつぐんでいたのもそれがよくわかっていたからだろうと伊角は思った。
 帰宅してみると、家の中は静まりかえっていた。伊角は家族を起こさないように静かに階段を上り、自室に入った。
 コートを脱ぎ、コンピューターの電源を入れる。OSが立ち上がったのを確認し、彼はすぐにメールのチェックをした。
 その日は久しぶりに楊海からのメールが入っていた。どうやら遠征から帰ってきたらしい。
 簡単な近況連絡と、暇があったらネット碁をやろうという誘いの言葉があった、その日にはその他にもう一通、グリーティングカードのお知らせメールが入っていた。リンクされているアドレスにアクセスすると、クリスマスカードが表示された。通信欄には、ありきたりの年末年始の挨拶が書かれていた。
 伊角はちらちらと雪の舞い降りるアニメーションをしばらくぼんやりと眺めていた。
 奈瀬は笑って誤魔化していたが、本当はやはり飯島からの連絡を待っているのではないか。電車の中でのやりとりを思い出し、伊角は改めてそう考えた。
 奈瀬にしても冴木にしても、一時であっても誰かと心を通じ合わせた思い出があるのかと思うと、伊角は二人がやはりうらやましくなる。
 冴木は新しい恋人を作って、いつかは以前の恋人のことを忘れてしまうのだろうか。奈瀬も飯島も、それぞれの進む道でやはりお互いの記憶を薄れさせてゆくのか。そして自分の身に翻って考えてみると、自分は楊海と連絡を取らずにいることは出来るだろうか。
 ディスプレイの中でちらちらと降り続ける雪をなおも眺め、伊角はそんなことは今の自分には出来ないと思った。
 もし彼が楊海と連絡と取ることをやめてしまったら、楊海はそれほどの時間も置かずに自分のことを過去として処理してしまうのではないか。そして彼の中に自分がいなくなったとわかれば、自分の恋も次第に風化してゆくのかも知れない。時々はその方がいいのではないかと思うことがあるけれど、結局は自分の望むかたちではなくても、楊海の中に自分の記憶がはっきりと残されていて欲しいと思い直してしまう。
 今いるところからどこへ動いてゆくのがいいのか、伊角には確信を持って決めることが出来ない。自分と楊海の間に、飯島と奈瀬の間にあるような確かなつながりは見えないからだ。
 ――自分で乗り越えていくしかないじゃない。自分だけの悩みなんだもの。
 電車の中での奈瀬の言葉を伊角は思い出した。
 楊海のことに関して言えば、彼は迷路の中に一人閉じこめられて、ただおろおろしているのと同じようなものだった。そんな彼に今出来ることは、たとえ先が見えなくても、闇の中で手に触れた糸をたぐり寄せていくくらいしかない。その後どうするかは、糸の端が見えてからまた考えるしかないのだった。