key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』64

 芦原はそのビルに足を踏み入れると、まっすぐにエレベーターへ向かった。
 あいにくエレベーターは上昇中であったが、特に急ぐ用事でもなかったので、ボタンを押したまま、彼は気長に待つことにした。
 やがて自動ドアの開く音がし、彼は顔を上げた。中には彼よりも少々小柄な女性が乗っていた。彼はその顔を見て、思わず小声を上げた。
 その声に、女性の方でも彼に目を向けた。そして驚きに目を瞬かせたあとで、丁寧に頭を下げてきた。
「え、……と、ご無沙汰しています」
 彼は恐縮しながら挨拶をした。
 緒方夫人、沙織であった。
 自分の兄弟子の妻なのだから、本当ならば自分の方が深々と頭を下げなければならない立場だと思われた。しかし彼は彼女の名前すらろくに思い出せない始末だった。
「こちらこそご無沙汰しています。……いつもお世話になりまして」
 沙織はまた深々と頭を下げた。
「いえ。こちらこそ」
 芦原は緒方の顔を思い浮かべつつ、苦笑した。
 彼はそのままエレベーターに乗り込み、二人はそこで別れた。
 芦原がそのビルに来るのは、囲碁センターに用があるときだけで、緒方の妻である沙織がそのビルにいたところで特に不審に思うこともなかった。それに、その時の彼には、その後冴木とどこへ食事に行くかの方が重大な事だった。
 その後芦原が沙織のことを思い出したのは、碁会所で緒方と顔を合わせたときだった。
 彼は久しぶりに碁会所へ顔を出してきた兄弟子に対して、笑いながら皮肉めいた言葉を投げたあとで、唐突にそのことを思い出した。
「あ、そう言えば、オレこの間奥さんと会いましたよ」
「奥さん?だれの」
「緒方さんのですよ」
 芦原は緒方にコーヒーをさしだした。
囲碁センターのビルで。エレベーターで入れ違いになったんですよね。奥さん、緒方さんの分まで頭下げてましたよ。ほんとに出来た人ですよねぇ」
 そうしてふと緒方を振り返ると、きょとんとした顔をしていた。
「どうしたんですか?」
囲碁センターで会ったって?」
「いや、正確にはあのビルの一階です」
 緒方が妙に真面目な対応をするので、芦原も真面目に返した。
「なにかありましたか」
「うん?……いや、あんなところで何していたんだろうと思ってな」
「緒方さんがなにか頼んだとかじゃないんですか?エレベーターで入れ違いになったんで、てっきり緒方さんがらみの用事だと思ってた」
「そんなことは頼まないよ。彼女は彼女で自分の仕事が忙しいし。それにあの日はオレは市ヶ谷にいた」
「あそこ確か証券会社も入ってましたね。そっちに用とか」
「株はやらない」
「じゃあ、仕事の関係じゃないですか?空き部屋の改装とか。奥さん、建築屋さんなんでしょう?」
 緒方はまだ何か考えているような様子だったが、芦原はそれきりで話を打ち切った。
 そこで、アキラが姿を現した。彼は緒方を見ると「お久しぶりです」とにこやかに頭を下げた。
「丁度よかった。……緒方さん。来週の月曜とか、お時間ありますか」
「時間によるな。何時頃だ?」
「三時頃からなんですけど」
「その時間帯なら大丈夫だが、……どうした?」
「シーズンが終わったので、父が帰ってくるんです」
 そこまで聞いたところで、緒方は「わかった」と話を打ち切った。塔矢行洋の帰国時に呼ばれるのは、いつものことだったからだ。
 その日は兄弟弟子三名に市河も加えて四人で夕食を取り、緒方はいつものようにアキラを助手席に乗せた。
 塔矢邸の前で車を停めると、玄関の奥にぼんやりと灯りが見えた。
「奥様が先にお帰りなのか?」
 緒方が尋ねると、アキラはシートベルトを外しながら、「いいえ。進藤だと思います」と答えた。
「少し前の土砂降りの日に予告もなくやって来て、玄関さきで震えながら僕の帰りを待っていたことがあったので、この間合い鍵を渡しました」
「あいかわらず仲がいいな」
 と、緒方が言うと、アキラは笑いながら「あいかわらず喧嘩ばかりしてます」と答えた。
「明日はご在宅ですか」
「ああ」
「お邪魔してもいいですか。実はご相談したいことがあるんです。今日お会いできたので、丁度いいと思っていたんですが、進藤が来ているとなるとちょっと……」
 緒方が承知すると、アキラは安堵した表情で軽く会釈をし、車を降りた。