key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』51

 対局日だった。
 伊角が休憩で一息ついていたら、珍しく公衆電話からの着信があった。
 携帯電話を持っていない末弟が家の鍵でも忘れたのかと思い、伊角はそのまま電話に出た。聞こえてきたのは、楊海の声だった。
 突然のことに慌てつつ居場所を尋ねてみると、成田にいてバスの時間を待っているという。伊角があっけにとられていると、楊海は「伊角くーん?もしもーし」と言いながら笑っていた。
「来るなら来るって、連絡下さいよ!」
 伊角はつい声を荒げてから、自分の狼狽ぶりに頬を紅潮させ、ひとり周囲を見回した。
「ごめんごめん」
 楊海はなおも笑っている。
「今回急にこっち来ることになってさ。用事済んだらすぐに帰る予定だったから、黙ってようと思ってたんだけど、飯ぐらいは一緒に食えるかも知れないと思って」
 声を聞くだけで、自分の身体がざわつく気がした。
「伊角くん、今どこ?」
囲碁センターです。今日手合い日で……。いま休憩してました」
「あ、そうか。ごめん」
「休憩中だったから、いいって言えばいいですけど。……楊海さん、これからこっちに移動ですか」
「そう。で、オレもまず打ち合わせだから、終わったらオレの方から電話入れるよ」
「泊まるのはいつものところですか?」
「うん」
「わかりました。じゃあ、連絡待ってます」
 通話が切れたことを確認してから、伊角は携帯電話を閉じた。
 手元に視線を落とし、ため息を一つついた。

 対局を終えた伊角は、結局どこへも身を落ち着けられないような気になって、既知である楊海の宿泊先へ向かうことにした。
 八重洲からの移動の最中、彼は耳慣れた外国語が聞こえたことにふと足を止めて振り返った。行き交う人が多すぎて、自分の耳に飛び込んできた言葉がどこから発せられたものなのかはわからない。さらにぐるりと見回してみても、それらしい人も見あたらなくて、彼はしかたなくまた歩き始めた。
 その時のように、街を歩いていて中国語を耳にすることが以前よりも多くなったように思われた。いつか見たニュース番組でも、大陸から観光や買い物目的で来日をする人が増えているという話をしていた。
 ふと思い返してみると、親善旅行からはもう数年経っていた。北京にいた二ヶ月は濃厚な日々だったが、それも「たった二ヶ月」のことだ。それでも未だに伊角は町中で中国語を耳にすると、それがどこの方言であっても胸からかぁっと熱くなる。自分の中で、あの時間は消して忘れられないものだとそのたびに彼は思い直すのだった。
 待ち人から電話が来たのは午後八時を回った頃だった。ラウンジは夜の営業時間を迎え、彼の周囲はアルコールを手に語らう人々の静かな気配で満たされつつあった。
 すでに襟元を緩めた格好であらわれた楊海は、伊角の向かいに腰を下ろすなり、「待たせて悪い」と謝罪をし、ネクタイを外してため息を一つついた。
「お疲れ様でした」
 伊角は笑いながらそう言った。
「ああ、ほんとに疲れた」
 水を持参したウェイターに、彼は生ビールを注文した。
 中国棋院の中で仲間に話す北京語と同じ流暢さで、楊海は日本語を話す。伊角は彼を見つめ、自分が名前を呼ばなければ、誰も彼のことを異国人だとは思わないだろうと考えた。
たぶんこの人はどこでもそうだ、と伊角は思った。楊海はいつでも何気なくその場の空気に馴染む。伊角にはその柔軟性がうらやましいばかりだった。
「今日は対局日だったって?」
「そうです」
「で、どうだったの?」
「勝ちました、けど」
「けど?」
 やりとりをしながら、楊海の目は灰皿を探してテーブルの上をさまよう。やがてその目はテーブルに貼り付けられた禁煙マークにとまった。残念そうにため息をついた楊海に、伊角は慌てて、
「あ、移動しましょうよ。楊海さんおなかすいたでしょう」
 と、提案した。彼なりに気を利かせたつもりだった。
「うん。とりあえずビール来たらね」
 浮かせかけた腰を、伊角はそろそろと下ろした。
「それで、なにが”けど”なの」
 その後にようやく運ばれてきたビールを、楊海はすぐに手にした。
「内容があまり」
「勝ったんだろ?」
「そうなんですけど。自分ではなんだか今ひとつで」
 納得いかない理由を思いつくまま説明していた伊角が、ふと目を上げると、楊海は妙ににやけた顔をしていた。
「なんですか」
「うん?」
「オレ、なにか変なこと言ってます?」
「いや。……キミは変わらないなぁと思って」
「そうですか?」
 対応に困った伊角は誤魔化すように笑い返した。
「失着があったわけじゃないだろ」
「完全な失着なら負けてます」
「相手がミスしたとか?」
「ミスはなかったと思いますけど」
「でもキミは勝ったんだよな」
「ええ。まあ」
「その、まあっていうの、やめな。相対的にキミの方が力があったから勝てた。それだけのことだろう?それ以上ぐだぐだ言うのは相手にもどうかと思うぜ。調子の悪い日は誰でもあるだろ。今日はたまたまその日だったところが、勝ちを拾わせてもらったんだからむしろ感謝でもしとけよ」
 楊海はビールを一気に飲み干した。そしてふと目を上げると、伊角は傷ついたような目をして彼を見ていた。
「行こうぜ」
 楊海が伝票を手にして席を立つと、伊角も慌てて腰を上げた。伊角は自分が支払いをすると言い張ったが、楊海は「オレが待たせたから」と言ってさっさと支払いを済ませてしまった。
「楊海さん、いつ帰るんですか」
「明日」
 二人はカウンターに並んでラーメンをすすっていた。
「ほんとにすぐ帰っちゃうんですね」
「うん」
 伊角はつい箸を止めて隣で麺をすする男の横顔を眺めてしまった。一番新しい彼の記憶をなるべく自分の中に蓄積しておきたかった。
「なんかさぁ」
 視線に気付かれたかと思い、伊角は慌てて箸を動かしはじめた。
「このラーメンて、普段オレの喰ってるのとは全然別の食い物だよなぁ」
「……そうですかね」
「そうだよ」
 スープの中に沈んだ具をレンゲで掬い、飲み込んでは息を吐く。その様子を伊角は盗み見ていた。
「びっくりした?」
「なにがですか?」
「電話」
「ああ、はい。びっくりしました」
 楊海は愉快そうに笑っていた。
 
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いろいろイレギュラー