key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』54

「伊角くん」
 軽く肩を叩かれて、はっと気付くと奈瀬がいた。伊角は目を瞬かせながら、頬杖を外した。
「終わったのか」
「うん。伊角くんは?和谷待ち?」
「いや、今日はそうじゃないんだけど。和谷、まだいた?」
「まだ粘ってたよ。確か」
 奈瀬は自分が出てきたばかりの対局場の方を振り返っていた。
「伊角君、とっくに終わってたんでしょ?まだ帰らないの?」
「いや、うん。帰る」
 伊角は腰を上げた。彼らは連れだってエレベーターホールへ向かった。
「何してたの?」
「別に。ちょっと考え事」
「今日の反省とか?」
 笑いかけてきた奈瀬に、伊角は笑い返した。
「伊角くん、いま勝率何割くらい?」
 エレベーターの中で、奈瀬が問いかけてきた。伊角は天井を見上げながら記憶をたどり、「……八割くらい?」
 と、答えた。
「奈瀬は?」
「……六割、くらいかなぁ」
 奈瀬は唇をとがらせていた。
「こういうところだって言うのはわかってたけど、やっぱしんどいなぁ」
 ため息をつく奈瀬に、伊角は、
「でも勝ち越してるんだろう?」
 と、言った。
「多めに見積もってね。でも低段のうちからこんなしんどいんじゃ、この先どうなるんだろうって思うよ」
 会館を出たところで、伊角は奈瀬から食事に誘われた。彼女には目当ての店があるらしく、伊角は彼女の後を追うようにして歩き出した。
「伊角くんさぁ」
 奈瀬は一度声をかけてから、少し考え込むような素振りをして、再び口を開いた。
「あのね。あたしたぶん聞いた覚えないと思うんだけど、伊角くんて、高三のプロ試験の後で、誰にも連絡とらなくなったでしょ?あの時って、どうしてたの?」
 突然の話題に、伊角はつい失笑した。
「突然なんだよ」
「あのね。私、一回だけ院生研修サボったことあるんだ」
 伊角は奈瀬の言葉に驚いた。唐突な話題である以上に、意外な告白だったからだ。彼の院生仲間の女の子の中では、奈瀬はかなり真面目な部類であった。
「いつ」
 彼はつい訊き返した。
「伊角君が受かった年の冬かな。その前だったかな。スケートしに行ったから、冬は冬だけど」
「スケート?」
 そうしていちいち訊き返すのは、自分でもひどく間抜けに思われた。
「学校の友達の紹介でね。男の子と遊びに行ったんだけど……。結局いろいろあって、碁会所行くことになってね」
「だれと」
「だから。その男の子と」
「なんで?」
「なんか、そう言うことになっちゃったの!」
「それで?」
「それで、どこかのビルの中にある碁会所に適当に行って、そこにいたなんか厳つい顔したオッサンと打った」
「男連れで?」
「そう」
「その時一緒にいた男の子って、まさか、高校の囲碁部とか……」
「そんなわけないでしょ。囲碁なんかぜんぜんわかんない普通の子。だってわざわざそう言う子紹介して貰ったんだもん」
 奈瀬は唇をとがらせていた。
「それにしてもいきなりそのへんの碁会所って……」
 何も知らない相手とデートで行く場所じゃないだろう、と、伊角は言いかけ、その言葉をそのまま飲み込んだ。
「そうよ。とんでもないでしょ?でもさ、席について碁石持ったら、なんか生き生きして来ちゃって」
「誰が」
「私が」
「……」
 言葉をなくしていた伊角を、奈瀬は決まり悪そうな顔でちらりと眺めていた。
「それでね。もうやめられないなって思ったのね。その時に」
「……そうか」
「そうなの。その時のことがあるから、私なんとかプロになれたと思うんだよね。だからしんどくてもやめないし、私たぶん、棋士じゃない人とはつきあえないと思う」
「そんなことないんじゃないのか」
「そりゃまあ、将来的にはわかんないけどね。でも話通じないとつまんなそう。ていうか、つまんなかったし」
「……そうなのか」
「うん」
 奈瀬のきっぱりした口調に、伊角は言葉を継げなかった。二人は無言のまま地下まで降りた。