key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

結局後泊つけた人たち

「伊角くん、本当にいいの?」
 奈瀬は伊角の隣で心配そうにしていた。
「うん。車で送ってくれるって言うし」
 伊角は彼女を安心させようとにんまり笑ってみせた。
 イベントの後半に開催されていた指導碁は二時間ほど前に終了していた。後片付けまで手伝い、その日の報酬の一部であった日帰り入浴まで済ますと、もう外はすっかり暗くなっている。本当なら彼も奈瀬と一緒にここをあとにする予定だったが、いろいろあって事情が変わった。
「……じゃあ、今日はありがとうね。ほんとうに助かった」
 伊角が「気をつけて」というと、彼女は加藤の運転するワゴン車に乗り込んだ。彼は車内にいる先輩棋士たちに頭を下げ、奈瀬にはひらひらと手を振って、車を見送った。そうして踵を返すと、ロビーにいる緒方が目に入った。
 ソファにゆったりと腰を下ろしていた緒方は、伊角が彼の前に立って所在なげにしているのを一瞥すると、だまってカードキーを差し出してきた。
 伊角はそれをそっと受け取った。今日の自分には拒否権がない。
「明日の予定は?」
 静かに尋ねられて、伊角はうつむいたままカードキーを指先でもてあそんでいた。そんな風に尋ねてくるときにはたいてい、緒方は伊角に予定のないことを把握している。
「……ないです」
 伊角は仕方なく答えた。
「久しぶりに会ったのに」
 緒方は小さく嘆息し、首筋の凝りをほぐすように、掌をあてていた。
 伊角は唇をきゅっと結んだ。その後のことは、あらかた予想されていた。
「本当に急に決まったんです」
 伊角のいいわけめいた言葉に、緒方は「あとでゆっくり聞く」とだけ返した。
「もう少し挨拶回りがあるから、先に行ってろよ」
 立ち上がった緒方は一瞬だけ伊角の肩を抱き、するりと腕を外して、立ち去った。
 伊角は緊張で目がちかちかしていた。



「お前は本当は俺のことが嫌いなんじゃないかって、時々思うよ」
 和洋室の座敷で、緒方と伊角は向かい合って食事をしていた。伊角はばつの悪い思いをしながら茶碗蒸しを食べていた手を止め、伏せていた目を上げた。
 緒方は至極つまらなそうに、ビールを手酌しようとしていた。伊角は慌てて茶碗蒸しと箸を膳に置いて、酌をしようとしたが、緒方はそれには構わず、自分でビールを注いでしまった。
 手持ちぶさたなまま、彼が脇に控えていると、未使用のコップを差し出された。彼は差し出されたコップをそっと受け取った。緒方はそこにゆっくりとビールを注いだ。
「そんなにお前のことを束縛しているつもりはないんだが」
 確かにそうです、と、伊角は心の中で答える。緒方の機嫌を相当に損ねてしまったと思っているので、萎縮してしまって、口が開かなかった。
「なにか会いたくないわけでもあったのかな」
 彼は自嘲気味に言った。伊角の胸がつきんと痛んだ。
「飲めよ」
 促されて、伊角は素直に応じた。
 小さなコップに注がれたビールを、仰向いて一息に飲み干した。そして、ふうと大きな息を吐き、罪悪感から背中を丸めてうなだれてしまった。
 自分の気持ちをどう説明していいのか、よくわからない。自分から強引に押しかけるようにして彼に迫っていったのに、嫌いなわけがない。むしろ、好きで、嫌われたくないから、余計な警戒をしてしまう。


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この冬の刊行物に入れた『A day in the life of a fool』の最後の方に加筆して結局切り落とした部分。前半とムードが変わりすぎるから。このあとはどう考えてもロマンティックになりそうだったんで。