key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』55

「それでどうしてたの?」
 地下鉄のホームで奈瀬は突然会話を再開した。
「どう……。中国行ったり」
「それは知ってるけど。その前は?」
「普通に学校行ってたかな。卒業かかってたし。毎日補習ばっかで死にそうになってた」
「打ってた?」
 彼女の質問を受け流そうとした自分を見透かされたような気になった。伊角はつい彼女の様子をうかがった。
 覚えていないわけではない。むしろあの時期のことは、彼にとっては忘れたくても忘れられないことだ。それだからこそ、気軽に口にすることは出来なかった。
 奈瀬は答えを催促したりはしなかった。伊角にはそれがかえってつらい。まるで自分が返事をしない理由を見透かされているような気がしたからだ。
 あの時期には打っていたと言えば、打っていた。碁盤と碁笥は自室にそのまま置かれていて、毎日何度もそちらに目をやり、碁笥を開いて、石を手に取った。そして打ちかけてはやめた。何度となくそんなことを繰り返していた。本棚にある詰め碁の本を開いては、送り主である成澤の顔を思い出し、退会を告げたときの成澤の落胆した声を思い出して、そのまま本を閉じた。行く先々で辞める理由を尋ねられたが、本当の理由は一度も口に出来なかったような気がする。彼があの頃碁をやめたくなった本当の理由は、結局誰にも話せていない。
 それはなにより自分で自分が許せない気がしていたからだった。自分が許せないものを、他の誰が許せるだろうか。あれからもう随分時間がたってしまったけれど、本当のことを打ち明けた時に寄せられるであろう視線の鋭さに耐えられないような気がして、伊角は未だに誰にも口を開けない。
「あ、降りよ」
 二人で何も言わずにいる間に地下鉄は移動し、ある駅で思いついたようにドアへ向かった奈瀬の後を追って、彼も降車した。
 伊角が奈瀬に答える気になったのは、案内された店で、奈瀬と二人きりになってからだった。
「俺はさ、やっぱり中国棋院に行ったのが、大きかったんだよ」
「そもそもどうして行くことになったんだっけ?その話前に聞いたっけ」
「さあ。成澤先生から、突然電話かかってきてさ。”腰痛めて中国行けなくなったから、代わりに行ってくれ”って。あの時は本当にびっくりした」
「伊角君、成澤先生とは連絡取り合ってたの?」
「いや。辞めるときにはおうちにうかがって挨拶させて貰ったけど、その後はもう」
「成澤先生ってさ、ほんとに伊角君のこと好きだよね」
「……そうでもないよ」
 伊角はこそばゆい思いでぼそりと呟いた。
「でも普通辞めた人間に声かけないでしょ?」
「だから断りに行ったんだよ。入院してる病院までお見舞いに行ってさ。そしたらもう、”行きなさい”って。半ば命令で。……奈瀬、成澤先生って、話とかしたことある?」
「話はしたことないかな。九星会には何回か遊びに行ったことあるから、見かけたことはあるけど」
「成澤先生って、優しいんだけどさ。その優しい口調で、時々すごく厳しいこと言うんだよ。なんて言うんだろう。別にきつい言葉とか使うわけじゃないんだけど、言われたらもうその通りにするしかないみたいな。強制力があるって言うのか」
「それで逆らえなかったわけ?」
「それもあるし。その後に病室で延々口説かれた。一人でこもっててもろくなことはないから、ちょっと外国でも行ってこいとか。まあ、いろいろ言われて」
「へぇ」
 奈瀬は感心したような相槌を打ち、グラスを手にしていた。
「それで向こうに行ってその気になったの?」
「行く前から一応やり直す気にはなってたんだけどさ」
 伊角は何故か苦笑した。
「でも向こうに行ってみたら、……なんていうか。久々に燃えるものがあったというか。やりなおしたいなぁって思ったんだ」
「ふうん」
 奈瀬は面白そうな顔をして話を聞いていた。
「伊角くんは、何がきっかけでこっちに戻ってきたのかなって、前からちょっと興味あったのよ」
 店から駅までの道で、彼より数歩先を行く奈瀬が、振り返りながら言った。
「あの時は、もしかしたら本当に伊角君戻ってこないのかなって、思ったこともあったから」
 伊角は言葉を返せない代わりに、申し訳なさそうな愛想笑いを返した。奈瀬は彼に微笑み返し、「戻ってきてくれて、嬉しかった」と言った。
「そういうの。初めて聞いたな」
「何が?」
「戻ってきてくれて嬉しいなんてさ」
「そう?和谷とか感激して泣いたりしてたんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「だって一緒に頑張ってきた仲間だもん。嬉しいよ」
 伊角は笑いながら「どうもありがとう」と返した。
「とりあえずねぇ。私は伊角くんに勝つまでは辞めないから」
「それ目標小さくないか」
「いいの。とりあえずだから。だって、私だって、院生時代から一回も伊角くんに勝ってないんだから」
「そうだっけ」
「そうなの!」
 少しむくれた奈瀬の顔は、院生の頃と変わらなくて、伊角はつい声を上げて笑ってしまった。
「伊角君は?伊角君の目標って何?」
「オレ?」
「なに?本因坊とか?名人とか?」
「あ〜……それは、とれるといいよなぁ」
「もう、そういうところ、昔と全然変わってないんだから」
 酔っぱらった奈瀬はその日持っていた小ぶりのバッグで彼に殴りかかってきた。

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これは……ナセスミ?