緒方が伊角に電話をしたのは八月に入ってからのことだった。名人戦リーグの最終局、名人への挑戦が決定したこの日、彼は決心して電話を入れた。昼に雨が降り、蒸し暑い夜だった。
電話に出た伊角は、意外そうな声を出していた。
緒方は伊角を、前回待ち合わせたホテルへ連れて行った。車を降りた伊角は、建物を確認してぎょっとし、その後はおどおどしながら、緒方の後をついてきた。
緒方が伊角を連れて行ったのは、前回彼が伊角につれられてきた部屋だった。彼は部屋に入ると、さっさと窓際の席に腰を下ろした。
伊角は所在なさげに部屋の入り口で立ち尽くしていた。緒方は彼を側へ呼び寄せた。
「お前の要求をのむことにした」
伊角は呆然としていた。まさか緒方からそんな答えがもらえるとは思っていなかったようだった。逆に覚悟を決めてきた緒方は、今回は冷静だった。二人の立場は、前回と全く逆になっていた。
「一つだけ確認をさせろ」
緒方を見下ろす伊角は、怯えたような表情をしていた。
「あの日お前がこの部屋を取ったのは、意味があったのか」
見開かれていた目が、途端に陰った。
「あの日、食事をした店は?」
伊角は緒方から目をそらしたまま、固く口を結びなおした。
「すべて話をすると言っていたな。それはこの場に共通のルールなんだろう。その話を聞いてからにしたい」
はっきりと困惑している伊角に、緒方は「ここは彼の常宿なのか?」と問いかけた。
伊角は小さく頷いた。
「この間は、この部屋に泊まった?」
するともう一度頷いた。
「この間来たときには、あの店でメシを食ったんだな?」
伊角はまた頷く。緒方は額に手を当て、深く嘆息した。
「なんだって、そう自虐的なことばかり出来るんだ……」
伊角はうなだれていた。
「……今日はわざわざこの部屋を取ったんですね」
「お前はこの部屋がいいんだろうと思ったんだが、なんなら場所を変えよう」
「……いえ、ここでいいです」
「オレの確認しておきたいことはもうない」
伊角はただ立ち尽くしている。緒方はぶら下げられたなりの彼の手を取った。すると、はっきりと伊角が身体を震わせた。
「気持ちが変わったなら、今のうちに言えよ」
伊角は苦しそうな表情で、小さく口を開けたが、その口からはなかなか言葉が出てこなかった。
「先生」
「なんだ」
「……平気ですか?オレみたいのでも」
今更のような質問を緒方は鼻で笑った。
「流石にオレもお前みたいのは経験がないよ」
「知人に同じようなのがいるって、おっしゃってましたよね」
「あれは本当に知人だし、もっと常識がある」
伊角はゆっくりと腕を持ち上げ、緒方の方へのばしてきた。
「お前は、嫌じゃないのか」
伊角の手が緒方の眼鏡にかけられた。緒方は反射的に目を細めた。外された眼鏡は、側のテーブルに置かれた。
「先生が好きですから」
「別に気を遣ってくれなくてもいいよ」
「本当ですよ」
伊角は微笑んだ。緒方は思わず口を曲げた。
「先生と知り合えて良かった」
頬に添えられた指先は硬く、冷たかった。
伊角が身をかがめ、緒方の方へ顔を近づけてくる。視界に入ってきた唇は、わずかに震えていた。
ぎこちなく唇が押しつけられ、しばらくして離れる。
伊角はその時小さく息を吐いた。
それは緒方がこれまで口づけた誰より切ない溜息だった。