茫然自失だった伊角をホテルに置き去りにした日から、しばらくの間、緒方のところに伊角からの連絡はなかった。
緒方も忙しい日々が続き、対局の日にも同じ会場になることがないので、気にしつつも連絡を取ることはなかった。
連絡は取れなかった。
伊角に何をどう話していいのかわからなかったのだ。
あの時彼は伊角を一人にした方がいいと判断したのだが、後になってみると、それが本当に正しい判断だったのかと疑わしくなった。だが、あの時自分がずっと彼の側にいたところで、果たして何が出来たのか。何度考えても、結局何も出来ないのではないかと思う。伊角は別に、彼の手を必要としているわけではないのだから。
伊角の側からしてみれば、自分を混乱させるようなことをし、挙げ句いかがわしい場所に一人残して立ち去った緒方は酷い人間に思われるだろう。彼も醜態をさらすことになったわけだし、私的な付き合いはこれきりにしようと考えたのかも知れない。それも致し方ないだろうと、緒方が考えていた頃、伊角から電話が来た。梅雨に入る前の、じりじりと暑さが身に堪え始める時期だった。
指定されたホテルのティーラウンジへは、待ち合わせの時刻丁度の到着になった。伊角はソファに肘をついて、窓の外をじっと眺めていた。庭園の向こうに、夕陽がのぞいていた。伊角は夕陽を見ながら何事か考え込んでいる風に見えた。
二人はそこから食事へ向かったが、再び同じホテルへ戻ってきた。最上階にあるバーへでも向かうのかと思いきや、伊角はまっすぐエレベータホールへ向かい、乗り込むと、ある客室階のボタンを押した。
「二人きりで話をしたかったので、部屋を取ったんです」
伊角は彼に背を向けたままでそう言った。
あとから思い返してみれば、このとき伊角は極力緒方の顔を見ないようにしていた。向かい合っていても視線は外れていた。緒方はそれをてっきり、前回のことがあって気まずいせいと思い込んでいた。
勧められるまま窓際の椅子に腰を下ろした。伊角はしばらくしてコーヒーを運んできた。
「話は何だ」
緒方の方から切り出すと、伊角はびくりと身体を震わせていた。
やはり目は合わせないまま、伊角は、「お願いしたいことがあるんです」と静かに言った。思い詰めたような表情だった。
「オレに?」
「はい」
緒方は眉をひそめた。
「先生にしか、お願いできないんです」
何事かと思っていると、伊角はそのまま淡淡と「オレを引き受けてもらえませんか」と言った。緒方は言葉をなくした。
「引き受けるって、……どういうことだ」
伊角は一度唇を結び直し、決意したように口を開いた。
「愛人にして欲しいんです」
緒方は伊角をぽかんと見上げたまま、しばし硬直していた。自分の耳に入ってきた言葉が信じられなかった。何度も思い返しては「まさか」と打ち消し、「なぜ」と考えてみるが答えは得られなかった。
「なにを……」
やっとの思いで、緒方は問いかけた。伊角は妙に落ち着いた表情で、「本気です」と言った。
「お前、彼のことはもういいのか」
緒方の言葉に、伊角の眉がわずかに動いた。
「何かわけがあるんだろう。そうでなければ、突然そんなことを言い出すはずがない」
伊角の視線が、また外れてしまった。
「わけを聞かせろ」
「話さないと、駄目ですか」
「駄目だ」
伊角は困り果てた表情で、立ち尽くしていた。
「わけを言う気がないなら、オレももうお前の話を聞くつもりはない」
気の立つままに席を立ち、緒方は入り口へ向かった。伊角は慌てて彼を追いかけてきた。
「待って下さい」
追いついた伊角は緒方の腕を強く掴んで、壁に押し付けるようにした。
「話をしたら、引き受けてくれるんですか」
伊角は必死だった。
「それは話次第だ。馬鹿な事情なら、もうお前とは二度と会わない」
今度は緒方の方が伊角から顔を背けていた。
「話をしたら、引き受けてくれることもあるんですね」
ものすごい力で腕を捕まれていた。痛さに緒方は顔をしかめた。
「話します」
伊角は緒方の目を真っ直ぐ覗き込んできた。
「先生の聞きたいことは、すべて話します」
言葉の強さに負け、緒方は伊角と目を合わせた。目を合わせてもらえたことに安心したのか、腕をつかむ手がゆるみ始めた。緒方は自分の腕にかけられていた伊角の手を外した。
「……コーヒーより他にはないのか」
緒方はふらりと椅子の方へ戻り、どかりと腰を下ろした。まだ頭は混乱していた。「ルームサービスでも頼みますか」という伊角の提案に、緒方はアルコールを要求した。
彼はまず運ばれてきたビールを一息に飲み干した。するとすぐに水割りが置かれた。彼の好み通り、氷が多めに入れられていた。
緒方に連絡はなかったが、楊海は先日も棋戦のために来日していた筈だった。そのことを思い出した緒方は、突然こんな奇妙な方向に話が進んだのは、おそらくその時二人の間で何事かが起こっていたからではないかと推測した。
伊角は楊海に会ったことは認めたが、何事もないと言い張った。それでも納得できず、問い詰める彼に、伊角は「何もなかったから、先生に電話をしたんです」と緒方には訳のわからない言い訳をした。
「もう、あの人とは一生何もないんです。そうすることに決めたんです」
そう言う伊角の顔は、吹っ切れたように見える。
「むこうに恋人でもいたのか」
「さあ、それはわかりませんけど」
緒方は思わず「どういうことなんだ」と口に出していた。
「オレ達の間は、何も変わりません。これからもずっと」
「それは諦めたってことと違うのか」
「何も始めないままで、今まで通りのスタンスを一生貫いていくことにしたんです。そうすることに決めたんです」
「誰が」
「オレが決めました」
「……それとオレにどんな関わりがある?」
緒方は眼鏡を外し、額に手を当てていた。目眩がしそうだったのだ。
「この間、先生に先に進んだらどうかって言われましたよね」
「ああ、そうだな」
緒方は投げやりな返事を繰り返していた。
「この間、彼と会いました。そしたら会ってる間中、先生の言葉が頭の中でぐるぐる回って、大変でした」
「……それで?」
「好きだって、言おうかと思いました。何度も。でも言えませんでした。……言わないことにしたんです」
「なぜ」
「怖くなったんです」
「なにが」
「終わるのが怖くなったんです」
緒方は眼鏡をかけ直し、伊角を見上げた。
「失恋したら、それで終わり。受け入れられたら、そこから新しい関係が始まる。でも、それはいつまでも続くものじゃないじゃないですか。いつかお互いの気持ちが醒めてしまったら、やっぱりそこで終わりですよね」
目が合うと伊角は決まり悪げに笑っていた。
「そんな風になるのが嫌だったんです。いつか蜜月が終わって、会えなくなるのがわかっているなら、いっそ何も始めないで、これまで通り時々声かけてもらって、会うくらいがちょうどいいんじゃないかって」
緒方の目に奇妙に映るほど、伊角は落ち着いた様子で話をしていた。
「しかしお前は、そう言うのがたまらなく辛いって、言ってたんじゃなかったか」
緒方の言葉に、伊角は一瞬言葉を詰まらせた。が、やがて「辛いですよ」と、呟いた。
「先生に電話かけるまでも、実はずっとじたばたしてたんです」
「じゃあ、彼のことは諦めるんだな」
「諦めません」
「それじゃあ、話がおかしいだろう」
「好きじゃなくなるのを黙って我慢して、待つことにしたんです」
緒方は呆れたように溜息をついた。
「……馬鹿じゃないか」
「はい」
ちらりと見上げると、伊角は微笑んでいた。緒方はその笑顔に苛立ちを覚えた。
「……その馬鹿を、どうしてオレが引き受けなきゃならない」
「先生の他に、オレの事情をこんなに知っている人はいないですから」
「だからって、どうしてお前を愛人になんかしなきゃならないんだ。オレとお前の間に、欠片でも愛情があるのか。お前は好きなヤツがいるし、オレは妻帯者で、別にお前に惚れているわけでもない」
「別に本当に愛人にしてくれなくてもいいんです」
「なんだって?」
「お金が欲しいわけでもないし、……ただ、時々会って、相手してもらえれば」
「それじゃあ、今まで通りでいいじゃないか。時々顔を合わせて、お前のグチの一つも聞いてやって……それで何が不満なんだ」
「だって、それじゃあ負い目にならないじゃないですか」
「負い目?」
意外な言葉だった。緒方はとっさに訊き返した。
「絶対に誰にも話せないような、負い目が欲しいんです。あの人の前で好きだなんて口が裂けても言えないような状況に、自分を追い込みたいんです」
「同性愛者だってだけで十分なんじゃないのか」
「先生はそれでも許せるかも知れないとおっしゃったじゃないですか」
緒方はどきりとした。
「オレが一歩踏み出したら、あの人に受け入れられるかも知れないとも、言われましたよね」
確かに彼はぼろぼろだった伊角にそう言った。実際そう考えたこともあったし、あの時には伊角を慰めるつもりもあった。伊角がこんな切り返し方の出来る人間とは思っていなかった。
「……おかしいよ。お前は」
緒方はうめくように呟いた。
「おかしくなったんです」
「あえて、か」
緒方は続けて溜息をつき、「なんて馬鹿なんだ」と、呟いた。
「無理は承知の上です。こんな話は蹴って下さっても結構です」
緒方はぐったりと椅子の背にもたれて、伊角の話を聞いていた。
「オレの馬鹿な頭では、そんなことぐらいしか思いつけなかったし、こんなことを話せるのも先生しかいないんです。それに先生は、愛情を前提じゃなく結婚できる人じゃないですか」
確かにそんなことを話した記憶があった。まさかこんな場面で、そのことを持ち出されるとは思っていなかったが。
「その返事は、今日しなければならないのか?」
力なく聞いた緒方に、伊角は「いいえ」と答えた。
「じゃあ、ここは何のための部屋なんだ」
「こんな馬鹿な話を誰にも聞かれないために借りた部屋です」
「他にはどんな馬鹿な話があるんだ?」
緒方は自暴自棄になりかけていた。
「残念ながら、オレからはもう話はありません」
それで安堵したのかも知れない。緒方の口から思わず深いため息が漏れた。彼はそこで腰を上げた。
「一つ聞いておきたいことがある」
緒方は足を止め、背を向けたままで言った。伊角がついてきているのは気配でわかっていた。。
「お前がそんな馬鹿なことを敢えてする気になったのは、オレのせいなのか」
伊角は一瞬の間を置いて、「いいえ」と答えた。
「形だけでいいと言ったが、本当にそれでいいのか」
「……先生の望まれる形で結構です」
緒方の目に、その言葉が本当だとは思われなかった。彼は重ねて尋ねた。
「お前の本当の望みはなんだ」
伊角は躊躇っていたようだった。
「オレを丸ごと、先生のものにしてもらうことです」
しばらくしてようやく得られた答えに、緒方は目の前が暗くなる気がした。
「それでいいんだな?」
そう聞き返せるまでにもしばらくかかった。
伊角の小さな返答に、緒方は短く「連絡する」と返して、ドアを開けた。そして足早にそこから立ち去った。