碁会所『囲碁サロン』の事務室で、緒方が煙草を吸っていると、芦原が顔を出した。緒方の顔を見ると、彼は頭を下げ、「珍しいですね」と言った。
タイトルに本格的に絡むようになってから、緒方が碁会所へ顔を出す機会はかなり減っていた。アキラも最近まではあまり指導碁をやりたがらなかったので、自然芦原の出番が増える。実際芦原はこの碁会所での仕事が忙しいために、棋院がらみの講師依頼などはほとんど受けられなくなっているようだった。
緒方と軽く挨拶を交わした後、芦原はコートを脱ぎ、緒方の向かい側に腰を下ろしてきた。煙草を手にしたままその様子を眺め、緒方は芦原も伊角と同類であったことを思い出していた。
「どうかしましたか」
緒方がむっつりとしたままでじっと見つめてくるので、芦原は不思議に思ったらしい。堅い空気を和らげるようににんまりと笑うと、彼はポケットから煙草を取り出した。
「別に」
溜まっていた灰を落とし、緒方は煙草をくわえた。
芦原とは偶然出くわしたのだった。
緒方はその日容易に断れない相手に誘われて、付き合いでその界隈に出かけていった。そこがどういう人々の集う場所かと言うことは知っていたし、初めて足を踏み入れたところでもなかったのだが、まさかその日よく知った顔と出会うことになるとは思っていなかった。闇の中をすれ違いざま、何故かお互いの目が合い、つい二人とも足を止めたのだった。
芦原の隣には彼の知らない若い男がいた。二人はただならんでいただけだったが、そのときの芦原の硬直した表情から、二人の関係は察せられた。
不意のことに言葉をなくしたまま、気まずい思いをしかけていたところで、緒方はそのときの連れから声をかけられた。「今行きます」と返事をし、その場から逃げ出すようにして彼は歩き出した。
途中、ちらりと振り返ってみると、芦原はまだ立ちつくしたまま、彼を見送っていた。緒方はその後はもう振り返らなかった。
事情を聞いたのは、後日の研究会の時だった。
塔矢邸を後にした彼を追いかけるようにして芦原がやってきて、「誰にも言わないで欲しい」と懇願してきた。いつかはもうはっきりとはわからないが、いつになく真面目な芦原の顔つきの中にまだ子供っぽさが残っていたのを、緒方は何となく記憶している。
そのときの思い詰めた表情に、緒方はいつかの苦い記憶を蘇らせ、結局邪険にすることが出来なかったのだった。
どうしてオレの周りには、こういう輩が多いんだろう。
煙草を吸いながら週刊碁を読んでいる芦原を眺めつつ、緒方がそんなことを考えていると、芦原が不意に顔を上げ、「ところで市河さんは?」と、尋ねてきた。
「出かけた。何か買い忘れたものがあるとかで」
「そうですか」
芦原はまた目を落とした。
「芦原」
「はい」
「お前な……最近どうなんだ」
唐突で意味のわからない質問に、芦原は吹き出していた。
「どうって、なんですか。いきなり」
「付き合ってるやつとかいるのか」
「なんですか。その父親みたいな台詞」
芦原は眉根を寄せつつ笑っていた。
「まあ、適当にいろいろ。上手くやってますよ」
芦原はにこやかに話をしていたが、緒方はその裏に「相変わらず適当な相手と文字通り適当に付き合って気を紛らわしている」という意味を読み取っていた。
芦原の性的な志向が緒方の知るところとなったとき、芦原は、緒方に迷惑をかけることはないから、無理かもしれないが普通に接して欲しいと話していた。「迷惑をかけない」とはどういうことかと彼が尋ねると、自分には好きな人がいるのだと答えた。緒方はそこで自然に、いつか芦原と一緒にいた男のことを思い出していたのだが、芦原は彼の考えを読みでもしたかのように「あの時のは違います」と、即座に否定していた。
「じゃあ、誰なんだ」と、緒方が勢いで尋ねると、芦原は「誰でもいいじゃないですか」と笑って誤魔化そうとしていた。
「どうせ緒方さんの知らない人だし。……要するにオレのことを警戒する必要はないってことですよ」
と、自嘲していた。
その言葉を「構ってくれるな」という意味なのだと解釈した緒方は、それから芦原のプライベートには触れないようになった。しかし芦原の方は時々緒方と二人きりの時にぽつりぽつりと愚痴めいたことをこぼすことがあった。彼の好きな男は女好きであり、見境なく食い散らかしているとか、そのせいか、ちょっと軽そうに見えるけれど、実はどちらかと言えば純情で真面目で精神的に脆い質であるとか、憂さを晴らしに遊びに行っても、なかなかいい相手がいない、など。緒方は聞いているような聞いていないような態度で、時々思い出したように相づちを打ってやるくらいだが、ぶつぶつとぼやく芦原はそれでもどこか楽しそうで、緒方はその様子を見ると、何故か芦原が少し哀れに思われるのだった。
「まだあの界隈に出かけて行ってるのか」
「行きますよ」
芦原は自嘲気味に笑った。アキラの前では見せない表情だった。
「お前な……、オレと会った時みたいに、誰かと出くわしたりすることないのか」
「今のところ、会いませんねぇ」
「会ったらどうする」
「どうするって、……どうもしませんよ」
「気まずいだろう」
「そりゃそうですけど」
芦原は皮肉っぽく笑っていた。
「会ったら会ったで、お互いにしっぽつかむようなものですから。絶対秘密は漏れないですって」
「ふうん」
緒方は煙草を吹かしながら、適当な相づちを打っていた。
芦原に注意を喚起するような言い方をして、何を聞き出したかったのか、緒方は自分でも何となく察していた。芦原と話をしているのに、頭の片隅では伊角のことを思い出していたのだ。仮に二人が同じ性的志向を持っていたところで、伊角は芦原とは違う。あれは、憂さ晴らしに遊びに出られる質でもないよな、と、自分を納得させるような言葉を思い浮かべ、緒方は自分も芦原のように自嘲したくなった。
「それにしても、なんだって突然そんなこと聞くんですか」
芦原は煙草の火をもみ消すと、週刊碁を閉じて、立ち上がった。
「久しぶりに会ったから、なんとなく」
芦原の皮肉めいた笑い声は、流しの水音に紛れて、緒方の耳にはよく聞こえなかった。
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すいません。やっちゃいました。