key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』67

 重なっていた唇が離れた後、名残惜しげに開いたままのそこから舌先がちらりとのぞいていた。
 伊角はいつものように、はぁ、と、溜息のような呼吸を一つした。
 緒方はちらりと見えただけの濡れた赤に動揺した。
 組み敷いたときに出来る肩胛骨のあたりの陰の揺らぎや、シーツを握るような仕草、振り返って彼の様子をうかがうような目、どこか物欲しげに指を噛む仕草、……そういう瞬間的な姿態に、緒方はいつも刺激される。
 伊角は時々そんな風に媚態のようなものを滲ませる。
 緒方は以前彼の抱いた幾人かの女が見せた仕草を思い出す一方で、伊角が自分ではない誰かを思って媚態を見せているのかと思うと、所詮は他人の代わりでしかない癖に、有り体な媚態に簡単にあおられてしまう自分という男の安っぽさに、惨めになったりもした。
 伊角は時々彼に好きだという。しかし緒方にはそれは最初から虚しい言葉だった。
 確かに伊角は彼に好意は持っている。しかし愛してはいない。伊角が「好き」という度に、そのことを毎回確認するだけだ。愛されていないのに、どうして自分はこの男に答えてやるのか。どうして愛してもいない男のために、この男は跪き、身体を投げ出すのか。そう思うとなぜかいらついて、伊角を酷く痛めつけたくなることもあった。そして実際に手荒に扱うことがあっても、伊角は文句の一つも言わず、それどころか感極まって身体を震えさせることもある。そんなことがあると、緒方はいつでも帰途で酷い後悔の念に襲われた。
 伊角の気持ちがわからない。それ以上に自分がよくわからなかった。


 その日、緒方が自宅へ戻ると、沙織が遅い夕食をとっていた。
 カレンダーを見ると、沙織が遠くの現場に行くので遅くなると話していた曜日で、時計で確認すると、大体いつもの時刻だった。
「いつも大変だね」
 緒方が社交辞令めいた言葉をかけると、沙織は微笑みながら、なぜか恥ずかしそうにしていた。沙織のよく見せる表情だった。
 緒方は沙織の分もお茶を用意し、食事を続けている彼女と翌日の予定などについて話をしているうちに、先日芦原から言われたことを思い出した。
「そういえば、芦原が君と囲碁センターのところでばったり会ったと言ってたけど」
 沙織は黙って食事を続けていた。
「いま、あそこでの仕事でもしているのか」
 飲んでいた汁椀をおいて、ゆっくりとものを飲み下し、沙織は「仕事じゃないの」と答えた。
「確かあの日は、精次さん、対局だと言っていたでしょう?」
「ああ」
「場所を間違えてしまったの。あの近くへ行く用があったから、ちらっとのぞかせてもらおうかと思って、行ってはみたんだけど……。間違えたのがわかって、それで引き返そうと思って、エレベーターで下りたところで、芦原さんにお会いしたの」
「そう」
「ドアが開いたら知り合いがいるのって、本当にびっくりするわよね」
 沙織はそう言って笑った。それに付き合うように、緒方も笑った。
「珍しいね。君が対局をのぞきに来るなんて」
「精次さんが嫌なら、もう行かないわ」
「そう言うつもりじゃない」
 沙織は箸を置き、緒方の運んできた湯飲みを手にした。
「ねえ。塔矢先生、近々帰ってらっしゃるんでしょう?」
「ああ。……どうして知っているの」
「奥様からメールをいただいたの。今日。……こちらに戻るから、今度お食事でもしましょうって。……精次さん、また先生をお迎えに行く?」
「そうなるな。……一緒にいくか?きみが出迎えなら、奥様は喜ぶだろう。時間は教えてもらった?」
 沙織は首を振った。
「時間が合えば、一緒に行きたいけど」
「無理なら、仕事が終わってから、先生のお宅へ来るといい。どうせその日は遅くまで引き留められるだろうから、君が来るまで待っているよ」
 沙織はまた申し訳なさそうに微笑んだ。


「じゃあ、今日はここまでにしましょう」
 伊角が言うと、沙織は「ありがとうございました」と礼をした。
「次回は来週でいいですか」
 伊角はスケジュール帳をめくりながら問いかけた。
「来週……」
20日ですね」
「済みません。その日は所用が」
「そうですか」
「塔矢先生が帰国されるので」
 伊角はメモの手を止め、顔を上げた。
「あ、……先生と出迎えですか」
「ええ」
 照れているのか、沙織はぎこちなく微笑んだ。伊角の胸の奥の方がちりちりと痛んだ。
「じゃあ、再来週は」
「開けておきます」
「じゃあ、再来週にしましょう」
 コートを羽織り、背をむけかけた沙織は、何事かを思い出したのか、もの言いたげな目で振り返った。
「どうしました?」
「あの、……」
「はい」
 伊角は彼女に微笑みかけた。
「私、ここで芦原さんに会ってしまって」
「……いつのことですか」
「ひと月ほど前のレッスンの日だったでしょうか。家ではすぐには何も言われなかったので、私も忘れかけていたんですけど、この間、精次さんからそのことを聞かれてしまって……」
 伊角は黙って沙織の話を聞いていた。
「ついとっさに嘘をついてしまって」
「……なんて?」
「対局をのぞこうとして場所を間違えたと。芦原さんとは丁度下に下りたところで出くわしたので、何とか誤魔化せるんじゃないかと思って、それで」
「それで先生は」
「わかりません。私の話を疑っている様子はなかったですけど」
「そうですか」
 沙織は伊角に助けを求めるような目をしていた。彼は一呼吸をおいて、口を開いた。
「僕と一緒にいるような所を見られているわけではないから、たぶん大丈夫じゃないですか。もし芦原さんなりからなにか聞かれることがあっても、僕の所でレッスンを受けているのは、緒方沙織さんじゃなくて、菅野沙織さんですから。……まあ、なんとか誤魔化しておきます」
 伊角の言葉に、沙織は安堵の表情を浮かべ、丁寧に礼をして帰って行った。
 沙織のレッスンがその日最後であった伊角は、その後に片づけをして部屋を出た。