key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・34』

 緒方の前では伊角は遠慮ばかりしているように思われていた。それは進んで自分のことについて語ることがないからなのかも知れないと、緒方は楊海との会見後に伊角とあった際に、感じた。
 伊角は緒方に聞かれたときにだけ、過去のことを語った。聞けば素直に語るところを見ると、特に秘密にしたいわけでもないらしい。緒方が過去に九星会を訪れた際、伊角が不在で、成澤がそのことを気にしていたことなどを話しても、すんなりとその理由を述べた。
 緒方はその日初めて中国親善の件に触れた。
 「高校を卒業してからはどうしていたんだ?」と尋ねると、伊角は「中国へ行ってました」と答えた。緒方はいかにも初めて聞いたという風に、「中国?何をしに」と聞き返した。伊角は九星会の企画で親善訪問があったこと、成澤が急遽行けなくなってしまったこと、成澤から声をかけられ、不退転の気持ちで参加をしたことなどを緒方に語った。
「それで、どのくらい居たんだ?」
「約二ヶ月ですね。五月の初めに出かけて、プロ試験の直前に帰ってきました」
「それじゃあ、滞在費もバカにならなかっただろう」
「それが……」
 伊角は言いにくそうに眉をひそめつつ、笑っていた。
「親切な方が、こっそり居候をさせてくださって……、中国棋院で生活してました」
「なんだって?」
 緒方は一応驚いてみせる。伊角は申し訳なさそうに肩をすくめていた。
「先生ご存じでしょうか。中国棋院の、楊海八段という方なんですけど」
「先生から噂を聞いたことはあると思う。確か北斗杯の時に団長として来日していたとか。オレは……あまり記憶にないな。対局したことはないと思う」
 緒方の言葉はまるきり嘘ではなかった。彼の師行洋は全く独自に楊海と縁を結んで来たし、緒方は楊海と公式で当たったことはない。彼らの対局はいつも非公式だ。
 伊角は自分が楊海にどんなに世話になったかを、言葉を尽くして語っていた。どんな風に声をかけられ、叱咤され、助言を受けたのか。伊角の語る楊海があまりにも格好良く思われるので、緒方は自分の記憶にある楊海の顔を思い浮かべて、失笑をもらしそうになってしまった。
 彼が笑いをこらえているのがわかった伊角は、「どうかしましたか」と、彼に尋ねてきた。そのきょとんとした顔を見たとたん、緒方はつい笑ってしまった。
「いや。悪い」
 緒方は笑いを止めようと、咳払いをした。それでもどうかすると口元がゆるみそうになる。
「その、楊海八段というのは、どんないい男なんだろうと思って……」
「いい男……」
 伊角は楊海のことを思い浮かべているようだった。
「楊海さんは……、格好良くはないですけど……」
 伊角は言葉を選んでいるようだった。
「部屋は汚いし、だらしないし……」
 わざわざ楊海の格好悪いところばかり挙げようとしているようで、緒方にはそれがまた可笑しい。にやにやしていると、伊角はそれに気づいて何故か顔を赤くしていた。
「本当なんです」
「嘘だなんて言ってない」
 伊角は一瞬言葉をつまらせ、困っていたが、彼の滞在中に見た楊海の無様なところばかりを取り上げて話をし始めた。そのわざとらしさが、更に緒方の笑いを誘った。
 伊角はいろいろなエピソードを話しては「困った」とか「まいった」などと話していたが、その表情は明るい。伊角がどんなに中国棋院での生活を楽しんでいたのかは自ずから知れた。ひとしきり話が終わり、笑いもおさまった頃、伊角が「でも」と更に言葉を続けた。
「そんな人なんですけど、……オレにはすごく大事な人なんです」
 伊角は自分がどんな表情でその言葉を口にしていたのかを知らない。しかし緒方は、その時の彼の様子から、それと知らずに伊角の胸の奥にある秘密の扉の中をかいま見てしまったような気がしていた。