key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

約束


 伊角は話を一度やめて、盤面から碁石をやや多めに剥がし、一呼吸置いてから説明を再開した。
 沙織はテーブルの端に軽く手を載せ、伊角が石を置くのを丁寧に目で追っている。沙織の打った手のどこがよくなかったのかを説明され、彼女は最後には晴れやかな笑顔を見せた。
「難しいですね」
 ため息混じりの言葉だったが、表情は明るかった。
「焦らずいきましょう」
 伊角は笑い返した。
 沙織が伊角の個人指導を受け始めてから三ヶ月ほどになる。
 沙織が市ヶ谷本院での教室をやめてしばらく経った頃に、棋院を通じて伊角に指導の申し込みがあった。もう彼女は来ないのではないかという伊角の予想は、裏切られてしまったことになる。
 棋院の方で話を持ってきたと言うことは、少し前に指導を終了させた講座の日時設定が、沙織にとっては都合がよかったということなのだろう。彼女が夫と親しい棋士として自分を信頼していることを考えれば、あり得ないことではなかった。と、伊角は自分を納得させるように考え、少しの猶予を貰って、結局その話を受け入れた。
 彼女の依頼は、彼女が何も知らないためのものだろう。ならば、自分から彼女を拒むのはかえって不信感を生むのではないかと思った。何も知らないのであれば、何もないことにしよう。これは自分一人で決めてしまえばいいことだ。そう考えた。
 沙織はもとから難しい生徒ではなかった。こちらの指導を素直に受け入れるし、一度教えたことは忘れない。一対一で丁寧に指導をされて、ゆっくりではあるが、着実に上達していた。
「じゃ、次は年が明けてからになりますけど」
 壁にかけられた薄っぺらいカレンダーを見ながら、伊角が言った。
「ちょっと遅いですね。17日ですが、都合どうですか」
「ごめんなさい。その日はちょっと」
 沙織は申し訳なさそうにしていた。
「あ、お仕事ですか」
 個人指導に切り替えてからも、沙織は相変わらず仕事が忙しいらしく、時々直前に予約をキャンセルすることがあった。
「精次さんの誕生日なので」
 沙織の言葉に、伊角はちょっとの間を置いて「あ、……そうですか」と、返した。身体のどこかを針で刺されたような、小さな痛みを感じていた。
「毎年外で食事をすることにしているんです。普段なにも出来ていないので、こういうときくらいは何かしようかと思って」
 そうして彼女は「済みません」と頭を下げた。
「ああ、いいえ。大事なことですよね。そういうのは」
 伊角は笑い返した。
「わかりました。じゃあ、その次にしましょう。……ええと、そうしたら……」
 伊角が次に提示した日程で沙織は承知し、帰り際に改めて丁寧に礼をして、その日は帰った。

 伊角は帰宅後、棋院のサイトの棋士のプロフィールのページを開いた。
 初段になった頃に何種も書かされた書類の一つに、このプロフィールがあった。生年月日と出身地、所属、来歴などで、彼の場合には院生時代のデータが棋院に残されていたので、それが間違いないかどうかを確認し、個人情報公開について了承する旨の押印をさせられた。
 自分では特に利用することもないページで、自分のプロフィールが載っていることも半ば忘れていた。緒方のプロフィールなども、もちろん見た覚えがない。開いてみると、確かに某年1月17日生まれと記載されていた。
 知り合ったばかりの頃に運転免許証なども見せて貰ったことがあり、早生まれだと言うこともいつか聞いたような気はするが、細かなことはなにも覚えていない。
 彼が覚えていたのは、緒方の年齢だけだった。
 緒方の入段が、伊角の生まれた年であったからだ。当時緒方は十四歳だったと、いつか話していた。そのことははっきりと覚えている。
 自分の年齢に十四を足せば緒方の年になる。伊角はこれまでそんな風に考えて、緒方と自分の時間差を測ってきた。それだけで用は足りていた。
 緒方の誕生日がいつであろうと別にどうでもいいことだった。だからこれまで記憶してこなかったのだろうと伊角は思った。例えば薬指の指輪の裏側の日付のように、彼にはそれ以上に大事なこととして記憶しておかなければならないことがあったからだ。
 それに伊角自身にとって、年を重ねること自体もうあまり重大な意味を持たなくなっているような気がしていた。ある時期には誕生日が来るたびに院生卒業までのカウントダウンをされているような気がして、憂鬱になったこともあった。いまはただ日を重ねた結果としての加齢。それ以上の何ものでもないような気がする。
 おそらく緒方の方も伊角の誕生日は知らないだろう。伊角も特に教えたいと思ったことはないし、知って欲しいと思ったこともない。そんなことは知らなくても、彼らの関係に特に影響はない。
 そう考えて、伊角の胸がちくりと痛んだ。
 沙織から夫婦の約束事を聞かされた時と同じような痛みだった。
 ディスプレイの中の緒方は冷たい表情で伊角の方を向いている。その顔を眺めながら、伊角はその日の沙織の恥じらいながらの微笑みを思い出し、いつか宴席で見かけた夫妻の仲むつまじげな姿を思い出していた。
 とりあえず緒方は自分のものではない。そんなことは最初から承知していたことなのに、なぜいま自分は疎外されたような気持ちになって、しおれているのか。他人にはとても話せないようなことをあるときからは意識的にやってきたのに、まだ傷つくような余地が自分の心にあることに、伊角は驚き、自嘲してしまった。

 沙織から教えられた日から、伊角の頭の中には「1月17日」という日付が焼き付けられたようになっていた。何をしようというわけでもない。ただ気になっていたのだった。
 年始の棋士が多く集まる場所などでは、緒方のことを見かけもしたが、ただ遠くから眺めてまたその日付を思い出したりしていた。
 声はかけられなかった。もし声をかけたら余計なことまで話してしまいそうで、怖かった。
 するとそのうち緒方の方から電話がかかってきた。
 伊角は携帯電話のディスプレイに表示された名前を見て電話を取ろうかどうしようかしばらく迷い、結局留守番電話に切り替わる直前で受信ボタンを押した。
「しばらく音沙汰がないが、元気にしているか」
 久しぶりに聞いた声に、緊張する一方で頬は弛みそうになっていた。伊角はただ笑うしかできなかった。緒方の用件は、伊角も参加させて貰っている、緒方と友人達で主催している研究会の日程についてだった。
「17日の10時からだから」
「17日ですか?」
 伊角は思わず訊き返してしまった。緒方は不審に思ったらしい。しばらく間を置いてから「そうだが」と笑いながら返してきた。
「どうだ?参加できるか?」
「あ、……はい」
 釣られたように返事をしてから、「先生は参加されるんですか」と、尋ねてみた。
「ああ」
 沙織と出かけるのではないのか、と、つい口をついて出そうになった。伊角が意識をして口を堅く結んでいると、特に話はないと思ったのか、緒方は「じゃあな」とそのまま電話を切ってしまった。

 当日は研究会の会場の入り口で挨拶を済ませた途端、「伊角くん、今日こいつ誕生日なんだよ。知ってたか?」と、話しかけられた。
 動揺しながらも声の方へ顔を向けると、緒方がいた。同期で今日の会の主催の一人でもある橘九段から気安く肩に腕を回されて、決まり悪そうな顔をしている。
 伊角は二人に軽く頭を下げ、橘に対して「そうなんですか。知りませんでした」と、答えた。
「いくつだと思う?」
 伊角がいつものように計算の結果を答えると、「なんだ。知ってたのか」と、橘は面白くなさそうにしていた。
「緒方先生の入段と、オレの生まれた年一緒なんですよ」
「なんだ。そうなのか」
 橘と談笑しながら、伊角は緒方の視線を感じていた。
「そうでしたよね?」
 伊角はそうしてその日初めて緒方の顔を見た。
「お誕生日、おめでとうございます」
「どうも」
 緒方は静かに微笑んでいた。
 研究会は夕方になる前にはお開きになった。
 いつもは午後からゆっくり始まる会が、やけに早くからと思っていたら、研究会の主催メンバーは、緒方の予定を頭に入れて今日の日程を組んでいたらしかった。伊角はそのことを、昼食の席で他の棋士から聞いた。
「結婚するって聞いたときには、どれだけ続くのかと思っていたけど、なんだか普通に仲良くしているよなぁ。緒方も」
 そうして周囲は笑っていたが、伊角は上手く笑えなかった。
 先輩棋士たちへの挨拶を一通り済ませて、伊角が会場をあとにしようとしたところで、背後から声をかけられた。足を止め、振り向いてみると、緒方がいた。
「送ってやるよ」
 そういうと、緒方は有無も言わせず伊角の腕をとって歩き出す。急に強く腕を捕まれたことに動揺して、伊角は何も言えないままあとをついていった。
「家に帰るんだろう?」
「はい」
「乗ってけ。久しぶりに会ったのに、ろくに話も出来なかった」
 緒方は言い出したら聞かない人だ。伊角は素直に車に乗り込んだ。
 「ろくに話も出来なかった」と言っていた割に、車内では緒方の方でも大した話はしなかった。
 伊角は伊角で、珍しく緒方の隣で緊張していた。久しぶりに誘われて嬉しい気持ちも無いわけではなかったが、緒方がこの後沙織と出かけるのだと思うと、またいくらか寂しい気持ちになる。自分でも気持ちの整理がつかなくて、なかなか言葉を発せられなかった。そうしておかしな沈黙を続けている内に、車は伊角の家に近づきつつあった。
「あの」
 伊角が焦って出した声は、変に詰まっているように聞こえた。伊角は一呼吸置いて、話を再開した。
「済みませんでした。誕生日だって、オレ、しらなくて」
 緒方は黙っていた。伊角は緒方の横顔を盗み見た。機嫌は悪くないようで、少しほっとした。
「なんにも用意して無くて」
「何かくれるのか」
「……いつもお世話になってますから」
 伊角が自嘲気味に答えると、緒方は静かに笑っていた。
「何をもらえるのかな」
「何がいいですか」
「なんだ。それをオレに聞くのか」
「オレ、そういうの考えるの苦手なんですよ。何をあげれば喜んで貰えるのか、よくわからなくて。九星会の行事でプレゼント交換とか、本当につらかったんですから」
 伊角の言葉を、緒方は本当におかしそうに声を立てて笑っていた。
「だから、先生が決めて下さい」
「それでお前はオレの言うとおりにするのか?」
「いいですよ」
 自分で決められないのだから、仕方がないと伊角は思った。
「じゃあ、お前の家に着くまでに、何か決めておくよ。お前から貰いたいものを。それでいいだろう?」
 そこから二つ先の交差点で左に折れ、住宅の間をしばらく通って、緒方は伊角の家の前に車をとめた。伊角は礼を言い、そのまま車を降りようとした。
「伊角」
 声をかけられて、伊角は開けかけたドアを閉めた。
「さっきの話だが」
「はい」
 伊角は座り直した。
「一日、時間を空けてくれ」
「いつですか」
「いつでもいいか?」
「はい」
「じゃあ、4月18日に」
 伊角は驚きに小さく口を開けたまま、ゆっくりと振り返った。
 緒方はその日付の意味を理解しているのだろう。伊角が驚いているのを見て楽しげに微笑んでいた。
「どうだ?」
 伊角はただ返答に窮していた。その困り顔がまた緒方は楽しかったらしく、くすりと笑っていた。
 伊角は緒方の視線から逃れるように、うつむいた。頬が痛いくらいに熱くなっていた。
「……知ってたんですか」
 ぼそりと呟くと、緒方は「うん」と言ってまたくすくすと笑った。
「あけとけよ。4月18日」
 念を押すように緒方が言う。
 車を降りた伊角は、黙ったままで緒方を見つめてた。
 運転席の緒方は、穏やかな微笑みを浮かべている。
 このままずっと見つめ合っていられたらいいと思った。緒方がこのままここにとどまり、どこへも行かないで欲しい。ずっと、自分だけを見ていて欲しい。ごく自然にそう考えていた。
「じゃあな」
 緒方の車がゆっくりと動き出した。
 少し先の交差点を曲がり、緒方の車が見えなくなるまでその場で見送り、伊角は家に入ることにした。
 自室の明かりをつけると、すぐ側の壁にあるカレンダーが目に入った。
 伊角は数枚めくりあげ、4月18日の欄に印を入れた。
 誕生日のことなどこれまで話した覚えがないのに、緒方はすらすらと伊角の誕生日を口にした。その時のことを思い出すと、また頬が熱くなる。覚えて貰っていたことが嬉しく、そして無関心だった自分が少し恥ずかしかった。
 今年の誕生日は、どんな日になるのだろう。このところは放っておけば忘れてしまいそうだった自分の誕生日が、今年は少し楽しみに出来そうだった。
 彼に聞いても、おそらく当日まで何も教えてはくれないだろう。もうわかってはいるが、強引で、自分勝手な人だ。しかし、今日のように彼に手を引かれるのは、伊角にとって嫌なことではなかった。
 一つ年を重ねた今日、これから緒方は沙織とどんな時間を過ごすのだろうか。先ほど見送った緒方のことを思い出して、伊角はそんなことを考えてみたりした。緒方は沙織にどんな顔を見せるのだろうと思うと、妬ましさにちりちりと胸が痛む。 
 来年の今日は、彼は誰と過ごすだろう。自分はその時まだ彼の側にいるだろうか。
 目の前にぶら下げられているカレンダーの1月17日の欄にも、伊角は同様に印をつけた。