key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』59

 「しっかりした子だよね」というのが、緒方の周囲での伊角の評価だったが、緒方は伊角慎一郎という男のことを深く知るにつれ、それには同意しかねるようになった。
 表だってはそんなことは口にはしない。研究会の席などでは、伊角は年配者に気配りを欠かさず、先輩棋士をたてる「真面目で素直な若手棋士」であったからだ。伊角のそのような面ももちろん彼は承知している。だから仲間の言葉はそのまま飲み込み、胸の内でもやもやと溜まるものを感じていた。
 伊角の碁はけして大人しくはない。むしろ普段の彼の様子からは容易に想像できないような気の強さ、大胆さが感じられる。彼の師である成澤の影響もあるだろうが、碁には気性が表れるものだ。おそらく対局時に肌で感じることが真実で、伊角は普段はそれを懸命におさえているのだろうと緒方には思われていた。
 緒方は伊角のその自制心の強さが、いつか彼自身を壊してしまうのではないかと思うこともあった。伊角を自宅に泊めた翌日、別れ際に「大丈夫か」とつい尋ねてしまったのは、「寂しくても仕方がない」などとさらりという伊角に、漠然とした不安を覚えたからだった。彼の有り様はまるで、雨の中を遠出して、そのまま帰り道をなくした猫のようだと思う。どこへ行けばいいのかもよくわからず、ぼんやりとたたずんでいる。そのまま放っておけば、どこか危険な場所に知らず向かっていきそうな、そんな感じもして、声をかけずにいられない。
 伊角が突然泣き出したのも、そうして声をかけた夜のことだった。
 その日は食事のあと、緒方の行きつけの店で酒を飲んだ。話の最中に緒方が何気なく目を向けると、伊角の目から涙が流れていた。ぎょっとした緒方はそのままじっと伊角を見つめていたが、伊角自身は自分が泣いていることに気付いていないようだった。
「おい」
 緒方は視線を合わせたままで伊角の腕をつかんだ。伊角ははっとして目線を動かし、瞬きの拍子にまた涙がこぼれた。それから周囲の様子をうかがうように左右に目を動かして、最後に助けを求めるような目で緒方を見た。突然のことにただ戸惑っていたようだった。
「泣くなよ」
 緒方が言うと、伊角は一度大きく見開いた目をせわしく上下させた。瞼が動くたびに涙が流れた。
 いくらなじみの店だからと行って、泣いている男を連れてそのまま居られるわけもなかった。緒方は店員に断りを入れ、伊角をつれて店を出た。手を引きながら、頭の隅の方で「ついに壊れた」と思っていた。
 階下へ向かうエレベーターの中でも、伊角はただ呆然としていた。緒方も何が原因でこんなことになったかわからず、混乱していた。行く先のあてなどもちろんない。車があればそのまま伊角を車に押し込んで、家に送り届けるところだが、その日は最初から酒を飲むつもりで車を置いてきていた。「不幸は重なるものだ」とつくづく思い、彼は舌打ちをしたくなった。
 外へ出てはみたものの、伊角は依然として茫然自失の状態だった。緒方は仕方なく古い記憶を頼りにそこからしばらく歩き、いかがわしい匂いのする看板の並ぶ中から、名前もろくに確認せず、ある建物の中に入った。中途半端に明るい照明の中、薄汚れた絨毯の赤い色が目に痛かった。彼は眉をひそめながら空室の表示のある部屋を適当に選び、部屋へ向かった。伊角はその間一言も発しなかった。抵抗もしなかった。彼のことが気にはなったが、緒方は結局振り返れなかった。
 部屋に入った緒方は、伊角をとりあえずバスルームまで連れて行き、そこで手を離した。
 部屋に戻ると、壁に貼られた鏡にげんなりとした自分の顔が映っていた。ふと上を向くと、天井の鏡にも同じ顔が見えた。緒方はついに舌打ちをし、ベッドに乱暴に腰を下ろした。しばらくすると、扉の向こうからシャワーの音が聞こえてきた。彼が背中を押しても、伊角はぼんやり立ち尽くしていただけだったが、とりあえず動く気にはなれたらしい。
 気持ちを静めようと、緒方はポケットから煙草のパッケージを取り出したが、煙草は一本しか残っていなかった。思い返せば、彼がバーで煙草を頼もうと思っていた矢先に伊角が泣き出してしまったのだ。彼はその一本に火をつけると、苛立ちをゴミ箱にぶつけ、気を紛らわせるためにテレビのスイッチを入れた。自宅で時々見るニュース番組が放送されていた。もう一日が終わる時刻なのだと思った。
 今日の会話の何が崩壊のきっかけになってしまったのか。緒方は店でのやりとりを可能な限り思い返してみたが、見当がつかなかった。
 囲碁の話をしていた。緒方も昔目を通した小説の話から、タイトル戦の話になり、やがて話題は伊角の恋愛の話になった。彼を貶めるつもりはなかった。
 いつかこんなことがあるかも知れないと予想はしていたが、自分の目の前でそれが起こるとは考えもしなかった。
 やがてドアが開き、濡れ髪のまま伊角が姿を現した。彼は物珍しげに部屋の中を見回して、緒方と目があうと、困った顔をしてうなだれていた。
 手続きが煩雑でなく、干渉されない場所と思ってとっさに思いついたのがここだったが、通常はそれなりの意図を持って利用されるところだ。混乱していた伊角をこのようなところへ連れてきたことに対する気まずさと、自分が知らず伊角を壊すきっかけを作ったことに対する後ろめたさを緒方は感じていた。
 伊角はしばらく何も話さなかった。緒方の視界の端にうつる彼は、濡れ髪のためだけではなく萎れて頼りなく見えた。並んで座りながら、伊角は緒方とは微妙に間隔を置いていた。間隔を置きたくなる気持ちは緒方にもわかる。彼自身、まずい言い訳のような言葉しか伊角にはかけられなかった。伊角は彼を気遣うような返答をしてきたが、緒方にはその言葉は空々しく聞こえ、余計気まずくなっただけだった。
 またしばらく黙りあったあと、緒方は伊角に、店にいたときに何を考えていたのかと尋ねてみた。伊角はしばらく思案したあと、「もしかしたら迷惑かけているのかなって、思ってました」と答えた。
「誰に」
「あの人に」
 伊角は遠い目をしていた。
「思うだけならいいだろうって思ってました。告白なんかするつもりはないし、恋愛に発展させようとも思っていないんです。自分でも呆れるけど、会うたびにやっぱりこの人が好きだって思って……でもそれだけでいいやって思ってたんですけど。もしかすると、そう言うのって、相手に迷惑なのかなって……」
 伊角はそれ以上は言葉に出来なくなってしまったようだった。そのまままた泣き出してしまいそうな気配も感じて、緒方はちらりと伊角を見た。伊角はただ呆けたようになっていた。
 緒方は自分でも空々しいと感じつつ、伊角に慰めの言葉をかけた。結局はそうすることで、彼を追いつめた自分の罪をいくらかでも軽くしたかったのだ。優しい言葉をかけられて、伊角は少し落ち着いたようだが、それにしてもひどく心弱い状態であることに変わりはない。
 「泣け」と声をかけたのは、もうこうなったら思い切り吐き出させたほうがいいのではないかと思ったからだった。
 しばらくして、隣から無理に押し殺したような声が聞こえてきた。ふと横を見ると、伊角は身体を深く折り曲げ、バスタオルを顔に当てて泣いていた。泣き声はやがて耳をふさぎたくなるほど大きくなり、またしばらくの後に元の小さなうめき声に戻った。その声もやがて止み、それでもタオルで顔を覆い続けていた伊角は、かすれた声で「シャワー浴びてきます」と言うと、のろのろとまたバスルームに向かった。
 再び戻ってきた伊角の目は真っ赤に充血していた。彼は緒方とちらりと目を合わせただけで、先ほどと同じ場所に再び腰を下ろした。
「あの店、もう行けませんね……」
 伊角のつぶやきに、緒方は苦笑し、「仕方がない」と返した。
「また何処かいい店を探すさ」
 そのあとは二人とも一言もなかった。緒方もこのときにはどう話をつなげたらいいのか皆目見当がつかなかったのだ。そして、重苦しい沈黙に緒方が苛立ちはじめた頃、伊角が「……どうしたらいいんでしょう」と尋ねてきた。緒方はさっき消した最後の煙草にもう一度火をつけた。
「どうしたらいいんでしょう。オレ……」
 伊角はもう一度呟くように尋ねてきた。ゆっくりと一服をしながら、緒方は「それはこっちの台詞だ」と思っていた。そして記憶の中にある楊海の顔を思い浮かべ、彼に悪態をつきたくなった。
「一歩進んでみたらいいんじゃないか」
 それは緒方が少し前に楊海に会った際にうっすらと感じていたことだった。緒方の言葉に、伊角は当然のようにぎょっとしていた。
「もしかしたら、いい方向に発展するかも知れないじゃないか」
「……そんな」
 伊角の声は震えていた。緒方は振り返る気になれなかった。
「そんな上手い話はないでしょう。だって、あっちも男なんですよ」
「でも、別に向こうがそれで駄目かどうか、確かめたわけじゃないんだろう?」
「そうですけど……。そんなことあるわけないですよ」
 伊角は自嘲していた。
「そりゃ、それですべてがおしまいになる可能性はあるよ。でも、始まる可能性だってあるじゃないか」
 伊角は黙り込んでいた。
「そうだろう?」
 緒方の問いかけにも伊角は無言だったが、何を思ったのか、突然力ない笑い声を上げた。
「不戦敗だろう?それは」
「対局とは違いますよ。これは……」
「彼じゃなきゃ駄目なのか」
「駄目です」
「なぜ」
「他の人なんて……」
「好きでもないのに?」
「オレ、それほど器用な人間じゃないんです」
「それはわかってるよ」
「駄目です」
「負けるのが怖いのか」
「怖いですよ」
「じゃあずっと夢だけ見てろよ」
 伊角は身じろぎもせず、緒方の言葉を聞いていた。
「負けが怖いのは誰でも同じだ。だが負けのない人生なんてない。お前は、それを知っているはずなんじゃないのか。負けて、そこから学ぶことがあることを」
「だからそれは……」
「違わないよ」
「違いますよ!」
 突然激高した伊角は、手にしていたバスタオルを、思い切り床にたたきつけた。緒方はまず呆気にとられ、伊角の様子をうかがいつつそれを拾った。
「……どうしたらいいかと訊いてくるから、一つ提案をしただけだ」
 緒方は静かに語りかけた。
 見下ろすと、伊角の手は硬く握られており、わずかに震えてもいた。緒方は彼をなだめるようにそっとその手に触れた。頑固そうに見えたその拳は、緒方に素直に従い、開かれた。彼はその手にバスタオルを戻した。
「始めたくはないのか。お前は」
「……始まるんでしょうか」
 不安で仕方がなさそうな声色だった。
「そういうこともあるんじゃないか」
「……思うように会うことも出来ないのに?」
「それでも不戦敗よりはいいかも知れないじゃないか」
 伊角は自嘲していた。
「お前はオレとは違う人間だ。お前の生き方を否定しようとは思わない。だが、少なくともオレは、そう言うのは嫌なんだよ」
 緒方は床に膝をついて伊角の様子をうかがっていた。が、言葉も動きもない。彼はあきらめて溜息をつき、立ち上がった。
「チェックアウトまでの金は払っておくから」
 うつむいたままの伊角の表情は緒方からは見えない。ただ、口元は固く結ばれていた。
「オレはお前を気持ちが悪いとは思わないよ」
 それは慰めのために用意した言葉ではなく、彼の正直な気持ちだった。が、口にしてからぎょっとする言葉でもあった。
「オレはお前の同類とは違うが、……それでもお前のことは許すかも知れない」
 そう言い終えて、緒方はその部屋を後にした。
 伊角の残像を振り切るように早足で歩き、その界隈からも急いで立ち去ろうとした。タクシーに乗ってからも、意識して何も考えないようにした。伊角の泣き声が、耳について離れない。
 あんな風に泣く人間は、見た覚えがない。特に、大人では。
 あれは子供の泣き方だ、と、緒方は思いついた。
 身体の中に溜まったものをすべて放出するような泣き方だ。泣き終えた後には自分というものが薄い皮一枚しか残らないような泣き方だ。泣けと促したのは自分だったのに、声を思い出すだけで、こちらがつらくなりそうで、緒方はまた耳をふさぎたくなった。
 あんな風に泣いてしまうほどの思いというのはなんだと思う。少なくとも自分は、そんな激しい感情を抱えたことはない。泣きたくなったことも、ない。そもそも泣いた覚えというのがなかった。
 マンションに帰り着いてみると、深夜にもかかわらず、居間に明かりがついていた。沙織が消し忘れたのかと思いながら、そのままキッチンへ抜けていくと、バスルームの方から沙織が現れた。
「お帰りなさい」
 突然の遭遇に、沙織は目を瞬かせてぎこちなく笑った。
「もしかして、待ってた?」
 緒方の問に、沙織はただ微笑んでいた。
 すれ違いの多い生活で、二人はまだ夫婦と言うよりもルームメイトといった方が適切な関係だった。沙織と顔を合わせることは期待も予測もしていなかったが、それでもこのときには、緒方は何故かほっとしていた。伊角のうずくまるような姿と、あの声が忘れられない。一人でいたら、引きずられてしまいそうな気がしていた。
 沙織を見つめながら、緒方は伊角のことを考えていた。
 伊角はまだあの部屋にいるだろうか。また泣いているのだろうか。身体を丸めて。たった一人で。
「精次さん?」
 はっと気付くと、沙織が不思議そうな顔で彼を見上げていた。
「君は明日も早いんだろう?今日はもう休みなさい」
 背に手を添えて沙織を寝室へ向かわせる。緒方はキッチンに一人残り、冷茶をつぎ足して一息に飲み干した。目を閉じると、瞼の裏に伊角の残像が写った。彼は指先で瞼を押さえ、嘆息した。