key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』53

 緒方から呼びつけられたのは、ある寿司屋だった。
 店に足を踏み入れて中を見回した伊角が、緒方の姿のないことに気付いて、戸惑いつつ尋ねてみると、緒方は二階にいると告げられた。すぐに年若い従業員が出てきて、彼を二階に案内した。小さな座敷で、緒方は猪口を手にしていた。
「来たか」
 目があった途端に、伊角は緒方に何もかも吐露してしまいたくなっていた。
 指示をされるまま、伊角は彼の向かい側に腰を下ろした。
「飲むか?」
 と、言われて、伊角は無言で首を横に振った。
「なんだ。そんな辛気くさい顔をして。今度こそ振られたか?」
 伊角は力なく笑い返すしかなかった。
「こっちに来ていたのか」
「……はい」
 伊角は卓上の猪口と銚子に目をやりつつ、そう答えた。
「昨日、突然電話が来て」
「昨日?対局日だろう?」
「そうです。対局中に電話が来て。……丁度休憩取ってたんで、助かりましたけど」
 緒方は再び猪口を手にし、唇をしめらせる程度に酒を飲むと、「それで」と言った。
「終わってから、待ち合わせをして、一緒にご飯食べました」
「何を喰った」
「ラーメン、です」
「ラーメン?」
 緒方はさもおかしそうに笑いながら聞き返していた。
「楊海さんがラーメン喰いたいって。それで、行きたいって言われた店が、前に友達と行ったことあった店だったんで、そこまで案内して、一緒に食べてきました。楊海さん、自分が普段食べてるのとは全然違うよなぁって、なんだか感心したみたいに話してました」
「それで?」
「そのあともう少し話をして、ホテルのロビーで別れました」
「それだけか?」
「はい」
 緒方は呆れたようにため息をついていた。
 頃合いを見計らうように、襖が開き、皿が運び込まれた。
「よかったじゃないか。向こうから連絡くれたんだろう?」
「はい」
「それでその不満顔はなんだよ。正月にのろけられたときの方が、よっぽど嬉しそうだった。……まさかラーメンが不満だったとか?」
 「のろけ」と言う言葉に、伊角は苦笑していた。
「違います。そんなことでは全然ないし、楽しかったですよ。ただ」
 緒方は関心のなさそうな顔で箸を手にし、「ただ?」と聞き返してきた。
 伊角はにわかには答えられなかった。
 緒方は黙っている。言葉を選んでいた伊角がちらりと目を上げると、緒方は素知らぬ素振りで手酌をしていた。関心のないふりをして、待ってくれているらしい。
「嬉しかったし、楽しかったんですけど、さっきふっと”ああ、もう帰っちゃったんだなぁ”と思ったら、急に落ち込んだって言うか……。寂しくなっちゃって」
 それきり黙っていたら、手が伸びてきて酌をされた。伊角が慌てて猪口を持ち上げたので、がちりとぶつかり、酒がこぼれた。
「すみません」
 伊角は慌てて手を拭き、改めて酌を受けた。
「先生にはいつも迷惑ばっかりかけちゃって」
「迷惑?なにが」
「こんな話を聞かされても」
 緒方は苦笑しながら、「お前はいつもそんなことを言っているな」と呟いた。
「まあ、面白いかと言われるとそれほど面白くはないが、他人の恋愛の話なんて、だいたいこんなもんだろう。苦しいのも楽しいのも基本は自分だけのことで、口から出してしまえば、すっきりするんだろうから」
 伊角は顔をこわばらせ、決まり悪げに笑っていた。
「お前はいずれ向こうに行きたいとか考えているのか?」
 突然の話題に、伊角はまずとまどい、次に考え込んだ。
「どうしてもこっちにいなきゃならない理由もないんだろう?話を聞いていたらそれなりに向こうの水は肌に合ったようだし、思い切って渡ってしまってもいいんじゃないのか?その方が、お前もいくらか相手の側にいられて、精神衛生上もいいんじゃないか?」
 伊角はそれからまたしばらく考え込み、「まだ国外に出るレベルじゃないですから」と、言い訳のように口にした。
「まあ、今はそうだな。……でもいずれはどうなんだ?その気はあるのか」
「ないことはないです。だって、やっぱり魅力的じゃないですか?甲級リーグ戦は。先生は興味ないですか?」
「オレは今はそこまで色気は出せないよ。リーグ戦に参加した経験のあるやつに話を聞いても、面白そうだとは思うが、体力的にもしんどいような話も聞いているし。今自分がしたいと思っていることと秤にかけてそっちを取ろうという風には、オレは思わない。ただ、行きたいやつは行けばいいと思う」
「塔矢先生はなにかおっしゃってますか」
「あのひとは碁に関しては文句や愚痴は一切言わないんだ。一度倒れているから周りの方が気を遣って、一月に一度はこっちで検診を受けたりしているが、先生自身はそれほど自分の身体のことを気にかけてはいないし、対局中に倒れたら倒れたで、仮にそれで死んでしまっても、いっそ本望なんじゃないかと思う。そういう人だから、比較対象にはならないよ。あの年で、あの立場で外へ出て行くというのは、あれが塔矢先生だから出来ることで、普通じゃ出来ないし、なかなかする気にもなれないだろう」
 緒方は淡淡と話をしている。
「そのうちとか悠長なことを言っていると、自分ではどうにも出来なくなるぞ」
 緒方は杯を乾した。
 伊角は彼のことをじっと見つめていた。


 伊角の携帯電話の発信履歴をたどると、友人たちの名前の中に、時々思い出したように緒方の名前が混じる。伊角はその日自宅へ帰ってから何気なくその記録を見ていた。そして理由がわかると、口元が自然にゆがんだ。
 伊角が緒方と私的に会うときには、先方から呼び出されるのが常だった。理由は様々で、研究会のこともあれば、単純に食事に付き合えということもある。しかし伊角の方から彼に声をかけるのは、だいたい他の誰にも話せないようなことを胸の内に抱え込んでいて、悶々としているときだった。
 その日も九星会の建物を一歩出たところでものすごい寂しさに襲われた彼は、他の誰でもなく緒方のことを思い出していた。
 普段仲のいい友達なら、彼にはいくらでもいる。しかし誰よりも仲のいい友達にも話せないことを、緒方には見抜かれていた。
 緒方から自分の秘密について指摘を受けたときのことを思い出すと、伊角は今でも体中から血の気がひくように思われる。あの時にはなんの予告もなく、不意に裸に剥かれてしまった気がして、一瞬何も考えられなくなった。そしてその後には、彼からどんな言葉を投げつけられるのかと思い、身を固くした。
 自分のような立場のものが世間一般ではどのようにとらえられているのか、伊角は自分のことについて自覚をする前からわかっている。自覚をした今でも、ある一点を除いて自分は他と何も変わらないと思うし、実際そこに触れなければ普通に他人と付き合っていけるのに、ただその一点が違うと言うだけで、相手の態度ははっきりと一変する。だから彼は自身の特別な事情を自覚したときに、思いを寄せる相手に対してはもちろん、どんな近しい立場のものにも絶対にあかせないことだと考え、そうしてきた。自分にしてみれば、囲碁棋士であることと自分の秘密に関しては全く関わりがないことだ。しかしそんな風に切り分けて考えてもらえることの方が少ない。十分に警戒してきたはずの自分に、いったいどんな失態があったのか。緒方から指摘を受け、伊角が混乱する頭で必死に考えようとしていたとき、緒方から、
「別にそんなにビクビクしなくてもいいよ」
 と、言葉をかけられた。
「だからどうだって言う訳じゃない。ただ、事実を確認したかっただけだから」
 一瞬耳を疑う言葉だった。混乱したままの頭で、必死にその言葉の意味を理解し、裏を読み取ろうとしてみた。しかし言葉以上の意味は見あたらず、その後は緒方の言うままに自分についてぽつりぽつりと話をしていた。
 少し気分が落ち着いたのは、家にたどり着いてからだ。自室に入ってその日のことを思い出し、大変なことを知られてしまったと改めて感じたあとで、そう思いつつ自分の心持ちがいくらか軽くなっていることに気づいた。暗闇に閉じこめられて一言も口をきけずにいたところに、突然細い光がどこからか差してきた。そんな気がした。
 それから今に至るまで、彼には緒方しかすがれる人がいない。楊海の他に誰かを好きになれ、と言われたら、彼は間違いなく最初にその対象として緒方のことを考えるだろう。実際彼自身、緒方を好きになれたらいいのにと思ったこともある。しかし楊海と緒方を引き比べてみたときに、同じひかれ方をしているとは思えなかった。楊海に対して自分が抱いている欲望を、緒方に対して感じたことはない。緒方もおそらくはそのことがあるから自分の話に付き合ってくれている。彼が既婚であるということもあるが、二人の間には明確に一線が引かれているように思われていた。
 ただ、彼がひどく心弱い状態の時に、優しい言葉を投げてくれるものがいるとして、それが他の誰でもなく緒方であったなら、彼は緒方の前に頭を垂れて愛を乞うかも知れない。そんな風には思ったことがあった。
 風呂に入る前に何気なく洗面所の鏡に目を向けると、自分の身体が目に入った。
 伊角は自分の身体について、これまでなにも思うところがなかった。地方の泊まりがけのイベントなどでは、仲間たちと大浴場へ行くことなどもあるが、その時に目にするどの身体と比べても、自分が特別に劣っているとも優れているとも思わない。多少貧弱な気はするが、ごく普通の、二十代前半の男の身体だと思う。
 鏡の中に見える顔は何となく自信なさげで、誤魔化すように笑うと情けなく眉が下がった。
 伊角は、鏡から目を背け、風呂場の扉を開けた。
 自分はいつでも緒方の前では裸をさらしているようなものだと、ふと思った。