key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』49

 翌朝。伊角は目を覚ましてすぐに自分が知らない場所で寝ていることに気付き、あわてて身体を起こした。ぐるりと見回してみると、昨日着ていたスーツが彼の真後ろの鴨居につるされていた。事情がわからない焦りに、血の気がひいた。
 とりあえず身支度をして、襖を開けてみると、リビングに出た。見知らぬ部屋の光景に呆然としていると、奥から緒方が出てきた。伊角は目を丸くしたまま、彼に目を向けた。
「おはよう」
「……おはようございます」
「よく眠れたか」
「はぁ、……まあ」
「洗面所は向こうだ。タオルは用意してあるから」
 指示された方向へ向かう際に、伊角が軽く会釈をすると、緒方はくすりと笑っていた。
 顔を洗って戻ってくると、テーブルの上にコーヒーと味噌汁が用意されていた。「好きな方を」と言われ、伊角は味噌汁に手を付けた。
「二日酔いは?」
「ないです」
 伊角の前にご飯茶碗と数品のおかずが並べられた。
「食欲があるならどうぞ」
 そういう緒方の前にはコーヒーの入ったマグカップがあるのみだった。
「先生は」
「もう済ませた」
 伊角は手を合わせて箸を取った。
 食事の途中で、伊角はおずおずと自分がここにいる理由を尋ねてみた。緒方は「お前、昨夜のことは全然覚えてないんだな」とあきれた顔をしていた。
 緒方は伊角がバーで飲んでいる最中に突然碁を打ちたいと言い出したこと、深夜に碁会所を探すよりはと思い、自分の家へ誘ったこと、碁盤の用意をして戻ってみたら、伊角はリビングのソファで寝てしまっていたこと、それで仕方なくスーツを脱がせ、布団に寝かせたことなどを説明した。話を聞いていた伊角は途中で箸を置き、膝に手を置いて申し訳なさそうな顔をしていた。
「……すみません」
「もう、いいよ」
「それで奥様は」
「今いない」
「……もしかして、それも昨夜聞いてましたか?」
「うん」
 伊角はすっかり恐縮してしまっていた。
「お前にしては昨日は随分深酔いしていたみたいだな」
 緒方の取りなしめいた言葉に、伊角は何も言う言葉がない。
「どのくらいまで記憶があるんだ?」
「いつも連れてっていただく店に行ったのは覚えてます」
「じゃあ、碁を打ちたいと言ったのは?」
「よく覚えてません」
「その前は確か九星会の打ち初めの事を話していたな。それは?」
 そのあたりもうろ覚えの伊角は、それを誤魔化すように笑った。
桜野に絡まれて随分飲まされたと言っていた」
「あ、それは覚えてます!」
 つい勢い込んで答えた伊角に、緒方はまず面くらい、続けて笑い出した。
「もういいから食えよ。とりあえずお前が酔うとどうなるのか昨夜はよくわかった」
 緒方に促されて、伊角は再び箸を取った。
「今日は暇なんだろう?」
 教えた覚えはなかったけれど、緒方が確認してきたということは、昨夜正体を無くしているうちに、話をしていたのだろう。伊角は自分に改めてあきれつつ「はい」と答えた。
「まあゆっくりしていけよ。何かオレに話があるとか言うことだったから」
 伊角は眉をハの字にして笑い返した。
 布団を片付ける際に改めて室内を見回してみると、まだ新築の匂いが残っていた。床の間や鴨居などの木材も新しい色をしている。床の間に置かれた碁盤が年代物であるのが、部屋には妙に不似合いな感じもした。
 伊角は結局緒方に聞くべき事柄をすぐに思い出せなかったので二人はとりあえず対局をすることにした。床の間に置いてあった碁盤を持ち出してきて、彼らがのんびりと一局を打ち終えた頃には昼を過ぎていた。
 緒方から腹の具合を聞かれ、伊角が遠慮気味に答えると、「じゃあ軽く何か」と断るまもなく席を立たれてしまった。台所から戻った緒方は湯飲みを運んできた。
「今蕎麦でもゆでるから」
 伊角は「何から何まで済みません」と言いながら、おとなしく茶碗を受け取った。
 緒方がテレビのスイッチを入れたので、部屋の中は一気に騒がしくなった。伊角は茶碗を手にしたまま、改めて部屋の中をぐるりと見回してみた。
 新しく、清潔で、家具などの色調も統一感があり、好感を持つ、というよりは羨望を感じる。ただ、家庭の匂いがしないように思われた。伊角は緒方が結婚していると言うことを知っているけれど、おそらく知らずにここを訪れて、緒方が一人住まいだと言われても別に不思議には思わないだろうな、と、考えていた。伊角は窓辺に置かれている水槽になんとなく目をやりながら、その理由を考えてみた。
 あまりたいしたことも思いつけず、ふとテレビの画面を眺めると、コマーシャルが流れていた。見覚えのある女性タレントが登場し、笑顔で商品のアピールをしていた。数年前にはアイドルと言われていた彼女の姿は伊角には懐かしく感じられた。彼女のグラビアが楊海の部屋に飾られていたのを、伊角はよく覚えていた。
 緒方から不意に声をかけられ、伊角は目を瞬かせ、振り返った。
「お前はこれまで女に興味を持ったことはなかったのか?」
 突然の質問に困惑しつつ、伊角は「なんですか、突然」と笑い返した。
「さっきのCMが流れている間、なんだかすごい目で見ていたから」
「すごい目って」
 緒方の言葉に彼は戸惑った。自分では特別な感情を抱いていたつもりはなかった。
「オレもなんて表現すればいいのかわからないんだが。堅いと言えばいいのか冷たいと言えばいいのか、……厳しいと言えばいいのか。まあ、あまり好意は感じられなかった。いつもあんな目で見られてたら、女の方もお前にはなかなか寄りつかないだろうな、と、思ったよ。……そんな感じだ」
 答えに窮した伊角が僅かに目を伏せていると、緒方は更に、「ずっと女が苦手だったのか?」と尋ねてきた。
「苦手、ではなかったですよ。学校でもクラスの女の子とは普通に仲良くしてたし、院生仲間の女の子とも一緒に遊んでました。カラオケ行ったり。今でも付き合いあるし」
 伊角は苦笑しながら答えた。
「これでも女の子から悩み打ち明けられたり、告白されたこともあるんです。実は」
「ふうん」
 緒方は興味のありそうななさそうな顔をして聞いている。
「男同士で集まってれば、グラビア誌が回ってきたりもするだろう?そう言うのは」
「別に……。普通に「かわいいな」と思って見てましたけど」
「さっきのCMの子は?」
「え?」
 不意に話を戻されて、伊角はつい聞き返した。
 台所で鍋の湯が煮立っていることに気がついて、緒方は「悪い」と短く告げ、その場を立ち去った。
 伊角は先ほど緒方から指摘されたことに対するとまどいをまだ処理しきれないでいた。緒方の話が本当なら、なぜ自分はそんな目をして彼女を見つめていたのか。台所の方に目を向けたまま、伊角はまたぼんやりと考えた。

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へべれけの伊角の服を文句言いつつ脱がせる緒方。布団ひいてやる緒方。朝ご飯とコーヒーを用意してやる緒方。昼飯まで用意してやる緒方。……なんだかかいがいしい。