key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』56

「伊角慎一郎君ですか」
 成澤はその時、彼独特のどこかおっとりとした口調で電話の相手を確認すると、伊角には一言挨拶だけさせて、「伊角君、僕ね、また腰を痛めてしまって、中国へ行けなくなってしまったから、君、代わりに行ってください」と、告げた。
 まるでちょっとした用を言いつけるかのように、さらりとそう告げられて、伊角は自分の耳を疑ってしまった。そのことはきちんと記憶に残っていた。
 「先生、ご自宅ですか」と尋ねたら、「病室からです」と返された。もう夜の遅い時間だったので、病院名と病室の番号を聞いて、「明日伺います」とだけ言い、とりあえず電話を切った。
 「中国」と聞いただけで、なんのことを言っているのか見当はついた。
 九星会の国際親善事業は成澤が十年ほど前に始めたもので、数年おきに会に所属するプロ棋士が数名中国棋院へ赴くことになっていた。伊角も先輩棋士から話には聞いており、いつかは自分も参加したいと思ってきた。その前年のプロ試験が終了した後、院生を辞め、九星会も退会した自分には、もう縁のないことだと思ってきた遠征の話を、突然成澤から持ち出されて、伊角はひどく動揺した。正直なところ、一人悶々とするばかりだった彼には、自信がなかった。
 翌朝になって病室を尋ねてみると、成澤は横になっていた。頼まれてベッドをおこし、改めて対面する。久しぶりの顔合わせだったが、成澤のまっすぐな視線を伊角は受け止めかねてやや目を伏せてしまった。
「どうしてましたか。学校は卒業できた?」
「はい。なんとか」
「いま何をしているの」
「いまは何も。補習からやっと解放されたので、ぶらぶらしてます」
「そう。それでどうするの」
 一言一言が鋭く感じられる。伊角はそこで答えられなくなってしまった。
「今年は受けないのかい」
「……」
「今のままでは受からんでしょう。君も自分でわかってるんじゃないの?」
 一度頭に上った血が、ものすごい勢いで引いてゆくのがわかる。伊角は膝にゆるく置かれていた拳を握りしめた。
「君に何があったかは知らないけれども。でもね。他でもない君が辞めたいといったのだから、何か大変なことがあったんだろうと言うことはわかる。そう言うのは、黙っていてもなかなか乗り越えられんでしょう?どう」
「……」
「思い切って行っておいで。違う空気を吸えば、気分も変わる。ここらで海外でも行って、見聞を広げておいで」
「……でも、もう僕は九星会は辞めてしまいましたから」
「なにまた入ればいいだけのことでしょう。それだけのことなら、僕はいつでも許可しますよ。百合子さんに電話をして名簿に君の名前を書き加えて貰えばいい。君はまた入会の手続きをとればいい。それで問題はないね」
「先生。待ってください」
「なんだい」
 ちらりと目を上げてみた成澤の目には涼やかな笑みが浮かべられている。しかしその笑みの奥の奥には鋭い眼差しがあって、目があった瞬間に射貫かれたような思いのした伊角は、また目を伏せてしまった。
「こんな機会は滅多にない。それはわかっているよね」
 伊角はまた口をつぐんでしまった。
「君の名前を出したところで、おそらく誰も文句は言わんと思うよ。君に及ばない桜野君が行くのだから、君が行ったところで、おかしなことは何もないでしょう」
桜野さんが行くんですか」
「行くよ。たぶん君が行くとなると、彼女は喜ぶだろうねぇ」
「あとはどなたが」
 成澤は骨張った指を折って遠征メンバーの名を揚げた。桜野をはじめとして、皆顔なじみの、年も近い先輩棋士ばかりだった。
「どう?気後れするような面子ではないでしょう」
「……」
「なにも堅苦しく考えなくてもいい。僕が先方に電話を入れて、君のことはきちんと話をしておいてあげる。君はただ僕のチケットを受け取って、飛行機に乗って、行ってくればいいんです」
「……」
「なにより私は君に行って欲しい。……行ってくれないか」
 どう答えようかと迷っているところで、回診の時間になり、伊角は病室から追い出されてしまった。
 回診の医師たちが退室するのと入れ替わりに、伊角は再び病室に入って、成澤に申し出を受ける旨を伝えた。ろくな恩返しもせずその時の気分のままに退会した自分に声をかけてくれた成澤の気持ちに報いたいという気持ちが半分、残り半分は、遠征を現状打破のきっかけにしたいという気持ちからだった。