key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』66

「今日は何回戦?」
 楊海が訊いた。ビールを飲んでいた伊角は、慌ててコップを下ろし、「まだ一回戦です」と答えて控えめに微笑んだ。
「こっち来られそう?」
「あと五回ぐらい勝てれば、たぶん」
 少々意地の悪い問に対し、伊角はそう答えて声を立てて笑った。
「勝てるでしょ」
 楊海はそう言って、伊角のグラスにビールをつごうとした。伊角は慌てて飲み口を手でふさいだが、楊海はその手をもう片方の手でつまんではがした。
「……そう簡単に勝てませんよ」
 楊海がビールを注ぐのを、伊角は困った表情で見ていた。
「いま何段だっけ」
「七段です」
 伊角が答えると、楊海は「立派なもんじゃないか」と言った。
「やめてくださいよ。……かかとの高い靴を履いているみたいな感じで、いつまで経っても落ち着かないんですから。うっかりすると怪我をしそうで」
 伊角がふと目を上げると、楊海は後ろに手をついたまま彼をじっと見ていた。彼とまともに目線が合うと、伊角はやはり動揺してしまう。硬直したまま見つめ合っていると、緩められた襟元からのぞくのど仏が動くのが見えた。伊角はそれを見て思わず唾を飲み込んだ。
「……どうかしましたか」
 伊角は動揺を見せないように気遣いつつ話しかけた。
 楊海は何か言いたげにちょっと口を開いたが、「いや、なんでもない」と目線をそらした。
「ちょっと酔ったな。昨夜遅かったからかも知れない」
「遅かったって?」
「二時回ってたかな……うん。今日の打ち合わせに持ってく資料作ってて」
「楊海さん、昔はもっと遅くまで起きてたのに」
 楊海は苦笑していた。
「まあ「昔は」ね。確かにそうだったけど、もう最近は駄目だな。夜遊びも出来なくなった。ちょっと夜更かしすると、翌日は全然駄目なんだ。仕事にならなくて困る」
 楊海は残っていたビールを飲み干して、大きく息を吐くと、「じゃあ、行こうか」と腰を上げた。
「明日帰るんですよね」
「うん。明日の昼過ぎの便で」
「見送りいけないんですけど、お気をつけて」
「ありがとう」
 二人はいつものように楊海の宿泊するホテルの前で別れた。
 伊角はその時、なんとなくそのまま立ち去りがたい気がして、ガラス越しに楊海の様子を見ていた。
 楊海はポケットに手を入れて、カードキーを探す仕草をしながらまっすぐエレベーターホールへ向かったが、角を曲がる前にふと振り向いた。伊角の姿が見えたのだろう。彼は微笑んで手を振り、姿を消した。
 伊角は手を振り返し、彼の姿が見えなくなってから帰途についた。