key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

遠い星

『遠い星』38

塔矢夫妻に話したことに嘘はなかったけれど、緒方はそれまでそれほど真剣に結婚を検討したことはなかった。 一人暮らしが長く、もうすでに自分なりの生活スタイルが出来上がってしまっていたし、誰かと同居することなど想像したこともない。その時々で深い付…

『遠い星』37

沙織はおとなしい女であるようだった。 沙織から求められて会っている、という意識のある緒方は、彼女のおとなしさを緊張から来るものなのかと思っていた。しかし時々伺う表情には堅さはない。緒方は自身が対面した相手に緊張を強いるような雰囲気を持ってい…

『遠い星』36

中国リーグ参戦中の塔矢行洋から、緒方の所に突然電話が入った。 行洋は用のある時しか電話をしてこず、しかもいつでも単刀直入だ。その行洋がこの時にはなかなか本題に入らない。気持ちの悪くなってきた緒方が自分から尋ねてみると、行洋は「二週間ほど後に…

『遠い星』35

楊海は伊角の泣き顔を一度だけ見たことがある。 それは伊角が楊海の部屋に居候をしていた頃のことだった。楊海は伊角が部屋にいることを知らず、廊下にいた友人と話をしながら乱暴に自室のドアを開けた。そしてふと部屋の中に目を移してみると、伊角が呆然と…

『遠い星・34』

緒方の前では伊角は遠慮ばかりしているように思われていた。それは進んで自分のことについて語ることがないからなのかも知れないと、緒方は楊海との会見後に伊角とあった際に、感じた。 伊角は緒方に聞かれたときにだけ、過去のことを語った。聞けば素直に語…

『遠い星・33』

「先生、最近、慎ちゃん連れ回してるんですってね」 桜野の言葉に、緒方は「連れ回す?人聞きの悪いことを言うなよ」と微笑みつつ返した。 その日桜野は女流戦、緒方はリーグ戦で、二人とも日本棋院での対局だった。 「そもそも慎ちゃんて誰のことだ?」 「…

『遠い星・32』

「今、普段の手合いよりも緊張してるんですけど」 伊角はどこかぎこちない動作で、席に着いた。緒方は薄く笑いながら碁笥を用意していた。 「まあ、そんなに硬くならないで」 「無理ですよ」 そうして笑う顔もどこかこわばっている。 それでも握って、石を持…

『遠い星・31』

塔矢門下の棋士は回数の多少はあっても、皆碁会所で指導碁などをしている。受付の市河がそれぞれの予定をとりまとめ、一覧を作成し、それぞれに配布をしてくれる。 緒方はその週たまたま週末に顔を出すことになった。指導碁を終え、常連と話をして帰ろうとし…

『遠い星・30』

悪友達の配慮の甲斐あってか、緒方はその年、念願の本因坊位を手に入れた。しかし、その後すぐに始まった碁聖の防衛はかなわなかった。 緒方が伊角に電話をしたのは、碁聖を逃して腐りがちな気分をなんとか晴らしたいと思っていた、初秋のある日のことだった…

『遠い星・29』

緒方の師、塔矢行洋は、無類の碁好きだ。 好きこそものの上手なれ、という言葉があるが、緒方は長年行洋のそばにいて、言葉通りと思うことが良くある。行洋は昔から、強い棋士、面白い打ち手がいると聞くと、ふらりと出かけていったり、そのようなものを求め…

『遠い星』28

伊角の態度は慎ましやかだった。 不慣れな場であると言うことを考えれば、それが当然とも思われるが、とりあえず進藤ヒカルよりは常識を知っているらしい、と緒方は思った。 会の前半では、十段戦についてざっくばらんに意見や感想が交換されていた。伊角は…

『遠い星・27』

その年の十段戦最終局は市ヶ谷の日本棋院会館で行われることになっていた。 当日の朝、緒方が対局会場である幽玄の間に顔を出すと、中では棋院の関係者とその日の立会人である篠田がなにやら討議をしていたようだった。 「おはようございます」 緒方が声をか…

『遠い星・26』

伊角との電話を終えてから、楊海は緒方に電話を入れていた。 彼が来日しているというと、緒方は思い出したように、「ああ北斗杯の引率か」と言った。 「引率じゃないですよ。オレが団長なんです。オーダー決めるんですよ。オレが」 楊海の耳に、緒方の低い笑…

『遠い星・25』

「和谷くんていうのは、随分優しい子なんだな」 楊海が言った。 彼から電話がかかってきたのは、かろうじて当日中と言えるような時刻だった。 「楽平とはえらい違いだ」 「そんなことないですよ。昔は随分やんちゃだったし、すぐかっとして喧嘩するし……」 「…

『遠い星・24』

伊角がホテルに戻ってみると、レセプションはもう終わっていた。名を名乗りフロントに取り次ぎを頼むと、楊海はじきに姿を現した。彼はまだワイシャツ姿だったが、腕はまくられ襟元はゆるんでいた。その姿が遠くに見えただけで、伊角の心臓は小さくはねる。 …

『遠い星・23』

「中国行くのって、どのくらいかかんの?」 和谷の問いかけに伊角は窓の外を眺めながら「そうだな」と答えた。 「ちょ、伊角さん?」 体を揺さぶられて、伊角ははっと気付いた。 よく利用するファーストフード店の店内にいることを、伊角はそこで改めて自覚…

『遠い星・23』

その緊張がいつから続いているものなのか、彼にはよく解らなかった。 夢なら数え切れないほど見た。 大切な二ヶ月の思い出を反芻するようなものも見たし、再会の機会を文字通り「夢見て」のこともあった。目覚めたときには決まって酷い動悸がしており、身体…

『遠い星・22』

「和谷、今日ひま?」 伊角に声をかけられて、和谷は「何したいの」と返した。 伊角が彼に「今日ひま?」と訊くのは何処か付き合ってもらいたいところのある時である。昔から判で押したように同じ台詞を言うので、和谷ももう既に要領を心得ていた。 「電気屋…

『遠い星・21』

その年の新初段は三人いたが、伊角はその中でもひときわ注目を集める存在になった。 新初段シリーズで桑原本因坊に勝利したからである。 桑原との関係を何かと揶揄されることの多い緒方の所にも、当然のようにその話は聞こえてきていた。 「緒方さん、気にな…

『遠い星・20』

遠征から戻った楊海がひとまず自室へ戻ってみると、部屋は空っぽだった。 伊角に使わせていたベッドの上には、彼の持参した旅行鞄が置かれてある。ベッドに荷物が散乱しているところを見ると、片づけの途中で何処かへ行ってしまったらしい。 その様子を眺め…

『遠い星・19』

ロッカーの扉にスーツがつるされてあるのを見て、伊角は楊海に「棋戦ですか」と訊いてきた。 「うん。ちょっとな」 楊海はプレス済みのワイシャツを探し出すと、ベッドの上に投げ出した。 「明日の朝出て、帰りはぁ……木曜かな」 楊海がふと見ると、伊角は気…

『遠い星・18』

『楊海さん、電話!』 いきなりドアを開けてそれだけ告げると、楽平は乱暴にドアを閉めて立ち去った。呆気にとられた楊海の耳に、彼の走り去るばたばたという足音が聞こえてくる。 ふと目を向けると、伊角は長考中だった。 「あ、どうぞ行ってきて下さい」 …

『遠い星・17』

「二度とこんなことしないで下さい!」 と、突然怒鳴られて、楊海は一瞬ポカンとしてしまった。 楊海が伊角と楽平を対局させた際のことである。 しまった、と、思ったときには、伊角はもう既に楽平の待つテーブルに走り寄って、自分の持ち時間から遅刻分の倍…

『遠い星・16』

緒方への連絡を終えた楊海は食堂へ出向いた。 もう既に食事を終えたらしく、食堂に伊角の姿はなかった。が、食事を始めた彼が不意に顔を上げたところで、ひょいと顔を覗かせた李老師と目があった。 堅苦しいことが嫌いな楊海は、中国棋院内で生活をするよう…

『遠い星・15』

その日、楊海の部屋のドアがノックされたのは、午後十時になろうとする頃だった。 訓練室が閉められてから手続きにいったと考えると、妥当な時間だ。やっと来たか、と、思いながらドアの方に目を向けると、ゆっくりとドアが開き、伊角が恐る恐る顔を出した。…

『遠い星・14』

その日緒方が捕まったのは、中国棋院での夕食時間が終了しそうな頃だった。 腹の虫がなるのを「これが終わればメシだ」と宥めつつ電話をしていた楊海は、緒方の声に正直安堵した。 伊角が予定外にこちらに残ることになったことを伝え、「ちょっと声かけてみ…

『遠い星・13』

夕食後、趙石は一人で楊海の部屋に来た。 楽平は「風呂に入る」と言って、趙石とは部屋のドアを出たところで別れたらしい。おそらくは、楊海からまた口うるさく言われると予想してのことだろうと思われた。 趙石に頼まれていたデータをプリントアウトしたも…

『遠い星・12』

その日楊海が目を覚ましてみると、夕方だった。 明け方近くまでコンピューターを弄っていて、こうなったら、と、彼は自棄気味になり、朝食をとってから寝ることにした。食堂が開くのを待って丼飯をかき込んで、食堂へ向かう皆の視線を感じつつ部屋に戻ると、…

『遠い星・11』

緒方にとって、楊海はけして物足りない相手ではなかった。 同年代に王星がいるため、楊海の名はあまり表面には出てこず、国際棋戦の狭い出場枠を勝ち取るまでに至らないことも多くあったが、国内リーグのチームメンバーとして登録もされていたし、それなりの…

『遠い星・10』

緒方が楊海と初めてあったのは数年前。場所は北京のあるホテルだった。 楊海はその棋戦に出場するわけではなかったが、日本語が出来る貴重な棋士と言うことで、日本人棋士たちに割り当てられた通訳だった。 その頃楊海は二十になるかならないか。しかし風貌…