key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』52

 待ち合わせ自体が夜であり、しかも二人ともに翌日は朝からの予定があったため、二人はその時珍しく対局をしなかった。食事のあとには適当な話をしながらとりあえずホテルの最寄り駅まで行き、途中通りかかった店にふらりと立ち寄り、またそこでも話をした。伊角は楊海から、中国棋院滞在中に親しく付き合っていた幾人かの近況を聞いた。
「そういえば、楊海さんて、語学が趣味だって前におっしゃってましたけど」
「ああ。そうだけど」
「いつ頃から外国語の勉強とかしてるんですか?」
 伊角の素朴な疑問に、楊海は腕組みをして考え込んでいた。
「外国語は北京に来てからかな」
「最初に覚えたのって、なんですか」
「英語」
「次は」
「……日本語?」
「どうしてなんですか?」
「何が?」
「外国語の勉強って、大変じゃないですか。オレも英語は学生の頃にやってましたけど、何年勉強しても全然身につかないなぁって。いつもテストが憂鬱でした」
 本当にうんざりした顔で語る伊角を、楊海は笑いながら見ていた。
「どうしようもないときには、通訳頼んだりしてもいいわけじゃないですか」
「確かにそうだけど」
 愉快そうにひとしきり笑ったあとで、楊海はまず一服して話し出した。
「その通訳ってのがオレ嫌でさ。だいたい自分でなんにもわかんなかったら、自分の言ってるとおりに相手に伝わってるかどうかもわからないわけだろ?それにいつでも通訳なんて頼めるもんじゃないしさ。頼むの面倒くさいし、会話のテンポが悪くて間怠っこしいし。それなら自分で勉強して、自分で喋った方が責任持てるし、面倒くさくないし」
 伊角は何となく納得するようなしないような表情で話を聞いていた。
「それに語学出来た方が確実に人脈は広がるからね。他の人のためにオレが通訳で挟まることも出来るから、そうしたら一気に二人と知り合いになれる」
「なるほど」
「オレが日本語覚えてなかったら、君ともこんな風に知り合えなかったよな」
「ああ。そうか。それは、そうですよね……」
 頬杖をつきながら、伊角は楊海に話しかけられたいつかの日のことを思い出していた。
「でもオレは楊海さんにいろいろ教えてもらったりして、得してますけど、楊海さんは面倒ばっかり増えて、かえって損してないですか」
「いや。別に。ていうかさ、……面倒な相手には連絡取らないよ。わざわざ」
 不意打ちのような言葉に、伊角は言葉を失ってしまった。目の下の辺りが急に熱くなり始める。薄暗い店内でも頬の赤さを見られたらどうしようと思っていた。
「君はオレに何もくれてないと思ってるかも知れないけど、オレはオレで、ちゃんと貰ってるものあるからさ」
 伊角は唇を結びなおした。口元にでも力を入れていないと、自分がどうにかなってしまいそうだったのだ。
 伊角の、突然のご褒美のような再会に浮かれた気分は、翌日の夜まで続いた。
 九星会で小学生たちの指導を終え、彼が建物から出たのは午後の八時過ぎ。楊海と待ち合わせた時からおおよそ一日が経過していた。彼はおもむろに空を見上げた。
 その日は午前中に雨が降っていたので、見上げた夜空はいつもよりも澄んで見えた。楊海はもうとうに機上の人となっているはずだが、その飛行機の姿は当然のように見えはしない。それでも伊角は空を見上げたまましばらくその場でたたずんでしまった。そうして立っていると、昨日から続いていた急な高熱が一気にひいていくように思われる。軽い目眩に襲われ、彼はうつむき、額に手を当てた。
 最寄り駅までの道を、伊角はなるべく何も考えずにたどろうとした。そうしないと、昨日のことをいつまでも反芻しようとしてしまう。そんな風に過去をたどることでその後にどれだけ自分が苦しむのか、彼はもう十分理解している筈だった。それなのに、刻一刻遠ざかりつつある思い出を現在になるべく近い位置まで引き寄せようとする作業をやめられない。
 駅に到着した彼は、腕時計を忘れたことに気づき、携帯電話を取りだした。時間を確認して、いつものようにすぐに電源を落とそうとしたが、何故か手が止まった。開きっぱなしのディスプレイはやがて真っ黒になった。彼はその黒い画面をじっと見下ろし、しばらく逡巡した後、アドレス帳を呼び出した。
 出来れば繋がらないで欲しいと思いながら、コール音をいつまでも聞いていた。
 ようやくコール音が途切れたと思ったら、留守番電話センターに繋がった。伊角は心のどこかで安堵しながら、今度こそ電源を落とそうとした。
 そうして再び親指を電源ボタンに乗せたところで、着信があった。
 彼はとっさに指を着信ボタンに動かした。
「伊角か?」
 先ほどは自分から電話をかけたのに、聞こえてきた声に彼はつい動揺してしまった。
「いま電話してきたの、お前か?」
「……はい」
 一瞬誤魔化そうかと思っていたが、先方には着信履歴が残っている。伊角は観念し、小声で答えた。
「どうした?」
 伝えたい言葉はもうすでに頭の中にある。しかし本当にこの人にそれを言ってもいいものなのかどうか、伊角は決めかねていた。
「あの」
 彼はとりあえずそう発語した。しかし次の言葉が何も決まらず、結局は同じように間を開けてしまった。
 電話の向こうでは、どんなにか訝しい顔をしているだろう。そう思うと、何か当たり障りのないことでも話をしないと、と気持ちばかりが焦る。
「お前、いまどこだ」
 不意にあちらから問いかけられ、伊角はきょろきょろと辺りを見回して、既知の筈の駅の名を告げた。
「九星会か」
「はい。いま帰り道で……」
「メシは」
「まだです」
「じゃあ、つきあえよ」
 緒方は自分の居場所を告げると、伊角に半ば強引に「はい」と言わせ、電話を切ってしまった。
 相手の勝手さに呆れつつも、伊角は自分がその強引さに心のどこかで安堵していることにも気付いていた。自分が行動を決めかねている間に、向こうから来るように指示をされて、好都合だと感じていた。そして好都合だと感じている自分にうんざりする。
 伊角は今度こそ携帯電話の電源を落とすと、無造作に鞄に突っ込み、歩き出した。