key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』65

 翌日。午前十時頃にアキラは緒方のマンションを訪れた。彼は庭先で切ってきたらしい花数本と、小さな菓子折を「沙織さんへ」と差し出してきた。
「それで、今日はなんの話だ?」
 アキラは目前におかれた茶碗に軽く礼をし、「父のことです」と言った。
「誰にも言うなと言われていたので、緒方さんや芦原さんにも伏せていたんですが、……実は先月のリーグ戦のあとにまた倒れました」
「発作で?」
 アキラは頷いた。
「主治医はなんて言ってる」
 行洋が心臓の発作で倒れたのは、緒方とタイトルを争っていた春が最初のことだった。それ以後はしばらく自宅にいたので大事はなかったが、中国リーグへ参戦するにあたって、国内の主治医からは、必ず検診を受けること、指示どおりに服薬をすることなどを約束させられていた。行洋はそれには一応従って、リーグの途中でも何度か帰国をし、通院している。細かに体調を管理し続けているからか、当初心配されたような大きな発作はしばらく起きていなかったはずだった。
「なんて言うも何も……、こちらに来るときには安定してますし……。ただ、もう無理の利かない年になってきているとは言われました。とりあえず来週の帰国後にいつもよりは念入りな検査をして、その結果を見てと言うことになりますが、次に倒れるようなことがあったら、もう中国リーグへ参加するのはやめた方がいいと言われています。ボクももうそろそろこちらに腰を落ち着けてもらいたいとは思っているんです。リーグは半年ほどとはいえ、あの広い国の中を移動して回り、時々はこちらに戻ってくるというのは、父にはかなり負担が大きいと思いますから」
「……ふうん」
 緒方は師匠の顔を思い浮かべ、自宅で大人しくして命をつなぐよりは、旅先でもなんでも碁盤の前で死んだ方がよほどましだと考えているのではないかと思った。
「緒方さん、父を説得してもらえませんか」
「オレが?」
 緒方は思わず聞き返した。
「オレが何か言うよりも、君が話した方が素直に受け入れてもらえるんじゃないのか?」
「もちろんボクも話しますけど、一番弟子の緒方さんからも話してもらった方が、父もいくらか真面目に考えてくれるんじゃないかと思って……」
「それはどうだか」
 行洋は自分の身の振り方は自分だけがわかっていればいいと考えている。緒方も長い付き合いでそれをよく知っていたので、かつて行洋が日本棋院の所属を離れ、プロ棋士としては引退すると発表した際、妻である明子にも息子であるアキラにも一言の相談もなかったと聞いてもまったく不思議には思われなかった。それに、身内でも聞かないものを、どうして自分ごとき一介の弟子が進言して聞き入れるだろうか。
「あとは森下先生にもお願いしようかと思っています」
 緒方は森下の名前を聞いて、当たり前のことだが、アキラがかなり真剣に自分の父親のことを考えており、またそうしなければならない状況になっているのだと悟った。森下と行洋は古くからの付き合いがあるが、アキラ自身はこれまで森下とそれほど親しい付き合いをするつもりもないようだったからだ。
「緒方さんは、ボクの意見には反対でしょうか」
「いや。君が先生を心配する気持ちはよくわかる」
 緒方の言葉に安堵したのか、アキラの表情は僅かに和らいだ。
 アキラが帰った後、緒方は部屋を片付けながら、行洋の囲碁人生にもそろそろ終わりが見えてきたのだとしみじみ感じた。
 十段を自分に譲った年、行洋がプロ引退を表明したときには、「なぜいま」という言葉しか思い浮かばなかった。
 高齢の棋士は誰でもなにがしかの健康不安を抱えている。皆体調を管理しながら対局に臨んでおり、行洋もこれまではそうしてきたはずだった。入院が必要なほどの大きな発作だったとはいえ、引退の原因になるほどのものとは、緒方には思われなかった。また、実際彼と対局していた側からすると、以前と比べて対局の内容に問題が出てきたとは思われなかった。もったいない、と思ったし、畜生とも思った。引退するのは、自分が行洋からもっと多くのものを奪ってからにしてもらいたいと思っていたのだ。
 ただ、塔矢行洋は、身ぐるみ剥がされてから無様に引退をしてゆくことが出来るような人間ではなかった。地を這うような状態になっても現役であり続けるか、晩節を汚すようなことになる前に身を引くか、どちらかだろう。後者だとすると、当時の引退はそれなりに納得のいくもので、その後いろいろな棋士の訪問を受けながら、自宅で対局をしている師の姿は、緒方の目にもそれなりに楽しげに見えていた。あの時には、今のように感傷的な気持ちが滲むことはなかった。
 「終わるのか」と漠然と思い、緒方は寂しさと不安の入り交じったような気持ちになっていた。