key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・29』

 緒方の師、塔矢行洋は、無類の碁好きだ。
 好きこそものの上手なれ、という言葉があるが、緒方は長年行洋のそばにいて、言葉通りと思うことが良くある。行洋は昔から、強い棋士、面白い打ち手がいると聞くと、ふらりと出かけていったり、そのようなものを求めて町の碁会所へゆくようなところがあった。行洋が自身で碁会所を経営するようになったのも、「碁の普及」「自身や弟子達の収入安定のため」「資産運用」などという表向きの理由の他に、「才能ある打ち手との出会いを求めて」ということが大きな理由だったのではないかと、緒方は以前考えたことがあった。
 外国人棋士との交流事業などにも積極的だし、アマチュア棋士も研究会によく呼び込んでいた。他の棋士と合同で研究会を催したこともあった。
 そのような師の影響か、緒方も同様にいろいろな研究会へ顔を出した。そして行洋はそれを咎めるどころか、推奨をしていた。
 そういうこともあり、二人とも人付き合いがいいわけではないが、顔は広い。
 緒方は自分の性格が師に似ているとは全く思わないが、長い付き合いもあり、彼等の行動には似通ったところがあった。
 二度目の本因坊戦を闘っていた、ある夏の日、緒方は旧友から誘いを受けた。
「そろそろ気晴らしをしたくなってきたんじゃないか。付き合ってやるよ」
 その時点で本因坊戦は第四局まで終了していた。戦績は二勝二敗。勝敗は常に半目の勝負で、気負いの大きい分、緒方の消耗は激しかった。春から重たい対局が続いていて、夜の街へ出て行く機会も少なくなっていた。確かに自分には気晴らしが必要だと思った彼は、どんな面子が集まるのかもよく聞かずに、承諾の返事をした。
 待ち合わせの店に行ってみると、そこにいたのは、同年代の棋士ばかりが数人。お互いにとても気軽には口外できないような――しかしある場合には格好のネタになりうるような――ことまで知り尽くしているような仲のものばかりだった。
 当たり障りのない近況報告が終わると、自然話は最近の対局のことになる。そしてやはり一番の話題は、本因坊戦だった。
「桑原先生は、本因坊戦だけは目の色が変わるよな」
 緒方と同期のある九段が、笑いながら言う。
「全く醜悪きわまりない」
 緒方は煽るようにビールを飲んだ。
「引き際というのを全くわかっちゃいない」
「そりゃ、塔矢先生と比べてんのか」
 笑い声がおこったが、緒方はそれには反応しなかった。
「それにしてもさ、桑原先生も、本因坊の他はタイトル持ってはいないけど、割に良い位置には着けているだろう。大したもんだよな」
「ま、老いたとはいえ、容易に勝てるほど衰えちゃいないな」
「その辺どうなんだよ。緒方」
「なにがだ」
 緒方は面白くない顔で肴をつついていた。
本因坊戦と、その他の棋戦じゃ、随分雰囲気違うのか」
「そりゃ、呆れるほど違うね」
 緒方は通りかかった店員に、酒の追加を頼んだ。
「それがまた腹の立つところだが、……今年はもらうぜ」
「お前、一昨年もそう言ってなかったか」
「オレだって、あの頃とは違うよ。まあ、黙ってみてろ。今年は絶対にあの爺の息の根止めてやるぜ」
「そりゃ、会場に詰めとかなきゃなぁ。歴史的瞬間を見逃すわけにはいかない」
 また笑いがおこった。
 追加の品が運ばれてきた。
「そう言えば、桑原先生に土を付けた新人がいたな」
「ああ。結構な差があったとかいうけど」
「伊角初段か」
 緒方が名前を出した。
「ああ、そう。そうだ。そんな名前だった」
「どこの門下なんだ?」
「九星会だと言っていたな」
 これにも緒方が答えると、
「なんだ。もう付き合いあるのか」
 と、驚かれた。
十段戦の記録に来ていてな。……お前も来ていなかったか。あの時の反省会」
「いつの」
「最終局」
「ああそうか。あの日は終局までいられなかった。……それで?」
「反省会に呼んで、少し話した」
「それで、どうだったんだ?」
「うん?」
 緒方は曖昧に聞き返した。
「どういうヤツなんだよ。伊角ってのは」
 緒方は考え込む素振りを見せた。
「いたって普通だな」
「普通?」
「こいつがあの噂の、って感じだった」
 緒方の漠然とした話し方に、他の面々は笑っていた。
「もう少しわかりやすく説明できないのかよ」
 緒方は箸を持つ手はそのままで、しばらく考え込んでいた。
「まだ子供か?」
「二十歳だと言っていたな」
 緒方が言うと、「へぇ」と驚きの声が上がる。このところは低年齢の入段者が目立っていたせいもあったからであろう。
「子供と違って、道理がわかっているようではあった。篠田先生も気に入っているようだったな」
「それで?」
「上背もあるし、顔もいいから人気が出るんじゃないか?」
「そんなことを聞きたいわけじゃない」
 緒方は苦笑した。
「実際強いのか。どうなんだ」
「知らん。オレは別に伊角初段と対局したわけじゃないからな」
 薄笑いを浮かべながら話をしている緒方のことを、他の面々は意味ありげに見ていた。
「なんだよ」
 緒方が改めて問いかけると、彼等は一度顔を見合わせた。そして、緒方のはす向かいに座っていた一人が、口を開いた。
「今度研究会開くときに、呼ばないか」
「誰を?」
「その、伊角初段をさ」
 緒方はグラスを置き、彼等の顔を端から順に眺めていった。彼等は一様にニヤニヤとして緒方の方を見つめていた。
「なんだよ」
 緒方は苦笑しつつ再度尋ねた。
「電話してくれるよな」
「誰が」
 答えの代わりに、彼等は緒方を指さした。
「お前しか連絡つけられないだろうし、お前はそういうの得意だからな。頼む」
 緒方がもったいぶって首肯せずにいると、「お前だって、実際どんなもんだか知りたいんじゃないのか?」と、重ねて言われた。
「お前ら、オレが忙しい身の上だってことを忘れてるんじゃないか?」
「わかってるさ」
「第一、研究会なんて、いつ開けるって言うんだ。オレは九月まではほとんど空かないぜ」
 彼の機嫌を取るように、目前のグラスにビールがつぎ足される。
「まさか、オレに電話だけさせようってことじゃないだろうな」
 緒方は笑いながら悪友に噛みついてみせた。
「ちゃんと頭数に入れるよ。当たり前だろう」
「お前が暇になるまで、待ってやるよ」
 あからさまに機嫌を取られ、緒方は渋々承諾する様子を見せた。
 そうして緒方は、伊角に連絡を取るための大義名分を手に入れた。