key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

bathtime blues

 湯船にいるときにふと目を移すと、緒方が鏡に向かってしかめ面をしていた。
 実は自分の顔が気に入らなかったのか。と、一瞬思いはしたが、雑誌の掲載写真も逐一チェックしている緒方がそんなわけはない。どこかにニキビでも出来ていたのか、と、思い、伊角は何気なく「どうかしたんですか?」と尋ねてみた。
「なにがだ?」
 緒方は彼に背を向けたままで問い返してくる。
「……ものすごく嫌そうな顔をしているので」
 伊角は鏡に映った彼のしかめ面に向かって、そう答えた。
「見えないんだよ」
「何がですか」
「自分の顔」
 緒方はぶっきらぼうに答えると、剃刀を手にした。
 眼鏡をかけているのだから、緒方は目が悪いのだろうと思ってはいたが、風呂場で自分の顔が見えないほど悪いとは、伊角は知らなかった。
 緒方は石鹸を泡立て、なめらかに剃刀を滑らせて、白い泡をそぎ落としてゆく。
 自分の顔も見えないのに、あんなによく切れる刃物をつかっていて、大丈夫なのだろうか。よすぎるくらいに目のいい伊角は、眉間に皺を寄せたままで器用に剃刀を使う緒方のことを、半ばは感心し、半ばははらはらしながら眺めていた。
 やがて、何事もなく緒方は髭剃りを終えると、剃刀を元の位置に置き直し、ざばりざばりと顔を洗って、仕上げのように頭からシャワーを浴びていた。
 伊角はその一連を、湯船のへりに頬杖をついて見ていた。
「変わってくれ」
 ふと目を上げると、緒方が彼を見下ろしていた。
 濡れた前髪から雫がたれていた。額や頬を伝う雫がいかにも邪魔そうに、髪をかき上げている。細められた目は単に見にくいと言うよりやはりなにか不満げに見えた。
 伊角が素直に腰を上げると、ざばりと音がして、空いたところに波が立つ。その荒波に緒方は足を差し入れ、伊角と入れ違いに身を沈めた。
 すると、眉間の皺がようやく取れた。
 伊角は思わず吹き出してしまいそうになった。
「何してるんだ?」
 緒方の問いかけに、伊角は動揺した。吹き出しそうになっていたのを見られたのかと思ったのだった。
「いつまでもそんなところに突っ立って」
 その言葉に、心が弛んでついに笑いが漏れてしまった。
 緒方は細めた目を訝しげにしている。
 椅子に腰を下ろした伊角は緒方の方を向いて「オレは見えてるのかなぁと思って」といい、また笑った。
「どのくらい見えます?」
 と尋ねると、緒方は「ちゃんと見えてるよ」と不満げに答えた。
「ほんとですか?」
 問い返しながら、伊角は内心「自分の顔も見えないのに?」と思っていた。
 緒方は伊角の方に身を乗り出して、彼の腕をつかんだ。
「ほら」
 手はそのまま彼の腕を這い上り、肩に触れ、やがて髪に触れた。
「ちゃんとわかってる」
 細められたままの目を見つめていると、緒方の指先が頬に触れ、唇に触れてきた。唇の合わせ目をなぞるように触れる指先を、伊角は軽く噛んで、その動きを止めた。
 ふたりはそのまましばらく見つめ合っていた。
 伊角の目の前で、緒方の濡れた前髪から、また雫が垂れた。伊角は思わず、緒方の指を解放していた。
 その場の緊張を破るように流れる雫に、伊角は手を伸ばした。
 緒方の目元を流れ落ちる雫を、伊角は親指に力を込めて拭った。緒方の眉間に寄せられた皺をのばすようにして拭った。
 緒方は目を閉じ、わずかに肩をすくめている。
 その仕草に、伊角は自然と微笑んだ。
「早くしろよ」
 自身の長風呂は棚に上げ、まるで伊角の長風呂に当てつけるように緒方が言う。
 見えていないともうわかってはいたが、伊角は自分の笑顔を隠すように、緒方に背を向けた。