key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・32』

「今、普段の手合いよりも緊張してるんですけど」
 伊角はどこかぎこちない動作で、席に着いた。緒方は薄く笑いながら碁笥を用意していた。
「まあ、そんなに硬くならないで」
「無理ですよ」
 そうして笑う顔もどこかこわばっている。
 それでも握って、石を持つと明らかに雰囲気が変わった。ぴりりと引き締まったように感じられた。
 緒方もそれを見て、少しは面白くなりそうだと思った。
 実際、新初段相手にしては、実のある対局になったと思われた。彼自身もギャラリーがついていたことにしばらく気がついていなかったくらいだ。緒方は成澤の現役時代の碁も勉強したことがあるし、楊海の碁もよく知っている。伊角はやはり長く指導を受けた成澤の色が濃い碁を打った。そこに時々、楊海のつけたらしい色が混じる。どちらにも似ていない、伊角自身のものらしい色も、もちろんあった。緒方には、伊角は十分面白い素材と思われた。
 その後緒方は伊角を食事に誘った。それなりに満足の出来る対局が出来、緒方からも評価されたことで、伊角はまた少し緒方に対して心を開く気になったようで、その誘いをすんなり受け入れた。食事の最中にも随分饒舌だったし、緒方がその後別の店に誘った際にも、少しも嫌な顔をしなかった。
 自分の馴染みのバーに彼を連れて行き、一通りの注文を終えたところで、緒方は以前電話した際の、伊角の大げさにも思われるような対応を思い出して、つい失笑した。
 視線を感じて目を上げると、伊角が不思議そうに彼を見ていた。
「なにか?」
「ええと、……先生が笑っていたので、何かしたかなと」
 二人の前に飲み物が並べられた。
「以前の電話のことを思い出した」
「電話、ですか」
「研究会に誘おうと電話したことがあっただろう。あの時には、いきなり”今日は酒は飲めない”と言っていたよな。確か」
 伊角は思い出したらしく、少し間をおいてから「はい」と答えた。
「怒らないから、教えてくれないか。あれは誰かに入れ知恵されたんだろう?」
 伊角は気まずそうな表情をしていた。
「誰なんだ?」
 伊角はしばらくののちに、決心したように口を開いた。
「進藤、です……」
「進藤?」
 以前伊角から院生時代の話を聞いたときに、ヒカルの名前が出ていたことは覚えていた。いつか若獅子戦を観戦しに行った際に、伊角がいたことも覚えていたが、二人にそう親しい付き合いがあるとは聞いていなかった。
「進藤とは親しい?」
「はい。院生時代の仲間でやってる研究会のメンバーですし」
「それで」
 緒方はさりげなく続きを促した。伊角は一息おいたあと、「気を悪くしないでくださいね」と、前置きをして話し始めた。
十段戦で声をかけていただいたのがうれしかったので、その、仲間内の研究会の席でそのことをみんなに話したんです。そうしたら、進藤が気をつけろって」
「何に」
「……先生に、です」
 緒方は一瞬絶句し、苦笑してしまった。
「電話番号を教えたと言ったら、もう絶望的だ、みたいな反応されました。絶対呼び出されるって……」
 緒方は自嘲気味に笑い、「確かに呼び出したな」と言った。
「悪いことをした」
「そんなことありません!いつも勉強させていただいて。感謝してます。本当です」
「そうかな」
「はい」
 伊角の強い口調に、偽りは見えなかった。
「進藤は、オレのことを何て?」
 伊角は目を伏せ、ためらっていた。
「あいつがオレのことをよく言うとは思ってないから。遠慮しないで教えてくれないか」
 伊角は緒方をちらりと見て、口を開いた。
「突然電話でひとを呼び出して、その……お酒に付き合わせるっていう話でした」
「あとは?」
「自分や塔矢は逃げるけど、オレはもう成人してるから逃げられないだろうって」
「……ふうん」
「芦原さんが、よく先生に呼び出されているとか……」
 緒方は頬杖をついて伊角の話を聞いていた。
「確かにそうだ」
 緒方が肯定すると、伊角は困ったような表情で、ぽかんと口を開けていた。
「ところで、その、君の仲間の研究会って言うのには、芦原とかアキラ君も入っているのか?」
「ああ、いえ。二人ともゲストで何度か参加してくれたくらいです」
「ちなみにどんなメンバーがいる」
 伊角は指を折って数えながら、メンバーの名前を挙げていった。緒方は名前を聞くたびに表情を変える。既知の棋士らしい名が出ると眉を上げ、知らない名前には眉をひそめる。意識的なものかどうかはわからなかったが、伊角はそんな彼の様子につい微笑んだ。
「どんな活動をしてるんだ?」
 一通りの名前が挙がったあとで、緒方が尋ねてきた。
棋譜の研究したり、……北斗杯のあとからはリーグ戦を入れてます」
「楽しい?」
「気心知れてますから、言いたい放題で」
 伊角は笑いながら答えた。
「まあ、そうだな。オレも初めて君を誘った研究会が、一番リラックスできる」
「そうなんですか」
「怖い師匠はいないしな」
 緒方が笑うと、伊角もつられたように笑っていた。