key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・33』

「先生、最近、慎ちゃん連れ回してるんですってね」
 桜野の言葉に、緒方は「連れ回す?人聞きの悪いことを言うなよ」と微笑みつつ返した。
その日桜野は女流戦、緒方はリーグ戦で、二人とも日本棋院での対局だった。
「そもそも慎ちゃんて誰のことだ?」
「伊角慎一郎初段、て、言えばわかります?」
「ああそうか。わかる。伊角な」
「九星会でも噂になってますよ」
「なんて」
「慎ちゃんが緒方先生に目をつけられたって」
「……もう少しマシないい方はないのかよ」
 緒方は軽く笑ったが、桜野は真面目な表情で彼を見上げている。
「先生、私が少し前に中国へ行ったこと、覚えてます?」
「ああ。あの時は成澤先生が腰を悪くして、大変だったんだよな」
 桜野は僅かに頷いた。
「あの時、成澤先生の代わりに、急遽メンバーに入ったのが、慎ちゃんだったんです」
「ふうん」
 緒方はいかにも初めて聞いたかのように、相づちを打った。
「成澤先生のお気に入りか」
 桜野は再び頷いた。
「もともといい子だし、力もあって、OBにはかわいがられていたんですけど、あの時中国に居残りしてからは、後輩からの信望もひときわ厚くなったんです」
「……それで?オレに何が言いたい」
「先生、慎ちゃんをおもちゃにしないでくださいね」
「なんだ、本当に人聞きが悪いな。伊角がオレのことを迷惑だとか言っていたのか?」
「言いませんよ!そんなこと!」
 桜野は目をつり上げていた。
「慎ちゃんはそんなこと言わない子なんです。……それよりむしろ、先生とのおつきあいがすごく楽しいみたい。九星と先生はそんなにつながりがないし、先生はおつきあいの広い人でしょう?慎ちゃんは世界が広がって、単純にうれしいんだと思うんです。私たちに話してくれるときにもすごく生き生きした顔をしていて……。でもだから……」
 桜野は言葉を濁していた。
「成澤先生も、このことはご存じなのか?」
「ええ。慎ちゃんの話をいつもにこにこしながらお聞きになってます」
「そう」
「外へ出ていくのはいいことだって」
 適当な相づちを打っていると、時間が来た。二人はそれぞれの対局場所へ向かった。
 緒方は、以前から周囲が伊角のことを甘やかしすぎなんじゃないかと思うことがあった。
 ただ伊角との付き合いが続くにつれて、彼にはその理由も理解できるような気がした。
 伊角は一見してとても正しいのである。
 性質は穏やかで、素直に話を聞くことが出来る。下に弟が二人いるせいか、面倒見もいいらしい。協調性もある。勉強にも熱心だ。それで出しゃばらず、適当に言葉の上手くない辺りが、目上からはかわいがられる所以なのだろう。伊角自身に、目立つ非は見つからないのである。緒方自身、伊角を非難するような言葉を思いつくのは容易ではないと思う。桜野のような女性や、院生師範である篠田、伊角の師に当たる成澤などから見れば、優等生の伊角は好ましい人物だろうし、かわいがりたくもなるだろう。緒方の目から見ても、伊角は才能ある初段だ。いずれは、今後の碁界で活躍する若手の一人として当然のように名前が挙げられるようになるだろうと思う。それには異論はない。しかしそれと同時に、伊角に反発する輩がいることもよく理解できた。
 以前彼が若獅子戦の観戦に出かけた際、伊角の友人が、伊角の対局相手である、あるプロの少年と諍いを起こした場面に出くわしたことがあった。その後の篠田の話では、その少年は院生時代から伊角に対してはおかしな関わり方をすることが多かったという。伊角は院生時代は長くトップの座を保持していたと言うし、おそらく院生の時分には常に頭を抑えられてきたのだろう。面白くない思いも随分してきたに違いない。正しいことが伊角の最大の長所なのだが、それゆえ気に触るとも言えるのである。もし緒方が院生であった時分に伊角がいたら、あまり関わりを持とうとは思わなかっただろうし、目障りに感じもしただろうと思う。緒方も弟子として、また院生としては優等生で通していたが、彼は意識してそのような顔を作ることの出来るたちなのである。自然に正しくあれる伊角とは全く違う。彼が現在伊角と付き合いを続けていけるのは、二人の間に様々な隔たりがあることに加え、彼の方が年上で、ある程度客観的に物事を判断することが出来るようになっているからである。
 緒方は棋士というのはどこかいびつな方がいいのではないかと思っていた。才能だけが突出していて、人間的にはどこか欠けたところがあるくらいが、棋士としての適性は高いのではないか。棋士の世界に長く身を置くようになるにつれ、そのような思いは強くなる。そうして我が身を振り返ると、自身にはそれほどのいびつさは無いように思われた。だから無意識にいびつであろうとするところが、緒方にはある。自分でもそのことがわかっているので、彼はいびつなものに対して特に関心を示すところがあった。つまりそれは、コンプレックスの裏返しなのである。己の平凡さを思い知らされるとき、身近にいびつなものがおり、危険を感じた際に、彼が過剰に反応するのは、そのせいだった。
 伊角は緒方の目から見て、まだ安全な青年だった。人間的にバランスがとれており、才能があるとは言っても、彼よりはまだずっと下にいる。プロ棋士としてそれなりの経験を持つ緒方の目には、伊角が将来的にどの程度で歩留まりするかがなんとなく見える気がした。伊角は緒方を脅かすことはないだろう。しかし、彼をいくらかは楽しませてくれるかも知れない。そう判断したから、緒方は伊角との付き合いを続けているのである。
 伊角とつながりが出来てからしばらくして、緒方は行洋の対局を見るため、中国へ出かけた。同時に行われていたリーグ戦には楊海が出場することになっていた。緒方は対局前の会場で楊海と捕まえると、その夜の会見を約束させた。
 滞在先の部屋で、緒方が伊角に対する評価を話すのを、楊海は無言で聞いていた。
「お前があいつにしたことは、いったい何なんだ」
「たいしたことじゃないですよ」
 楊海は口の端を歪めるようにしていた。
「あの頃にも話をしたと思いますけど、彼の問題は主に精神的な面にありましたから、オレは少し助言をしたくらいです」
 その言葉に、緒方は満足できなかった。それでわざと「お前にしては謙虚すぎるんじゃないか」と、皮肉めいた言葉を口にしたのである。彼はあくまで楊海の本音を聞きたかった。
「伊角はお前の言葉通り、プロ試験に全勝で合格した。思い通りの仕上がりだったんだろう?」
「どうなんでしょうね」
 楊海の返事は、緒方の神経を逆なでするもののように思われた。
「随分おかしないい方をするじゃないか」
 楊海は緒方のいらだちを十分に感じていたようだが、言葉が上手く紡ぎ出せないらしい。頭をかきながら、顔をしかめていた。
「オレ、最近彼とは対局してないので、現在の状態はよくわからないですけど」
 と、前置きをして話を始めた。
「確かにオレが手をかけたことで、彼は強くなったとは思いますよ。それは自慢でも何でもなくね。毎日相手をしてやる中で、それなりの手応えは感じてた。ただそれはおそらく、彼がもともと持っていた力が、上手く外に出てくるようになっただけじゃないかと思うんです」
 そこまで話をして、楊海はちらりと緒方の方を見た。
「データをたくさん入れてやっても、運用の方法がめちゃくちゃなら、何の役にも立たないじゃないですか。オレのところに来る前のこともわからないですけど、彼はあのころ、そういう状態だったんじゃないかと思いますよ。だからオレは正しく運用できるようにアドバイスをした。それだけですよ」
「しかしオレは対局してみて、確かにお前の影響があったと思ったが」
「そりゃ、一日一回きりの対局じゃなかったし。オレがいいと思う打ち方で指導してるんだから、オレの色がついても全然不思議じゃないすよ。彼があんまり熱心なんで、流石のオレもいい加減逃げ出したくなるようなときもありましたしね」
 楊海は伊角が居候していた頃のことを思い出したのか、どこか懐かしそうな表情で苦笑していた。
「オレは伊角が若手の最有望株とは思えない」
 楊海の感傷を払うように、緒方は言った。
「オレもそう思いますよ」
 楊海は少しも堪えていない風だった。
「それじゃ、お前はどうして素直にオレの話を聞かないんだ」
「聞いてますよ」
「聞いていても納得はしていないだろう」
 緒方の台詞に、楊海は「本当に勝手なひとだなぁ」と呟いていた。
「伊角くんは、確かに最有望株ではないでしょう。塔矢アキラや進藤ヒカルと比べると、やはり少し見劣りする。でも、有望株ではあるでしょう。北斗杯に出てきた連中に比べれば、彼は年かさですが、それでもまだ若い。これから幾らでも変わる。だからオレは判断を保留したい。それだけです」
「伊角が劇的に変わるとは、オレには思えないね」
「残念ながら、オレはそれには賛成しかねます」
「なぜ」
 緒方の問いかけに、楊海は薄く笑っていた。
「そんな風に問い詰められても、はっきり答えられないんですけど」
「無責任な」
 楊海は自嘲していた。
「まだ底が見えてないんじゃないかと思うんですよ。オレは。まだ何か出てくるような気がする」
「その根拠は何だよ」
「さぁ。何でしょうね」
「おい」
 楊海は更に笑った。
「とりあえず彼は強欲だと思う」
「強欲?」
「とりあえず、碁に関しては」
 伊角の印象と結びつかない言葉が出てきて、緒方はつい聞き返した。
「もしかするとオレや先生よりも欲張りかも知れないですよ。実は」
「何だって?」
 楊海の意図が上手くくみ取れなくて、緒方はいらついてきていた。
「わからないですか」
「わからん」
「まだ知らないだけでしょう。きっと」
「仮にお前の言うとおりだとして」
 楊海の笑いを遮るように、緒方は声を大きくした。
「欲ばかり深くても力に直結するとは限らない」
「まあ、そうですが」
 楊海は咳払いをして、笑いを止めた。
「オレがやったような仕事を、また誰かがするかも知れない。そうしたら彼はまたきっと一足飛びに成長しますよ」
 緒方は以前納得できず、苦虫をかみつぶすような顔をして黙っていた。
「今度背中を押すのは、先生かも知れない」
「オレが?」
「やってみたくないですか。そういうの」
 無言の緒方を、楊海はにやけながら眺めていた。
「まあ、それは別にしても、彼がオレの予想通り化けるかどうかには関心があります」
 緒方は依然無言でいた。
「今度は先生が、様子を見てやってくれませんか」
「なんだって?」
 唐突な提案に、緒方は丸めかけていた背を伸ばした。
「いいじゃないですか。今度は先生の番てことで」
「仕返しか」
「”仕返し”とは物騒だなぁ。ギブアンドテイクでしょう。オレは先生との賭に勝った。約束も守った。あの時、「なんでも希望があれば」と言われたような気がしますが、たしかまだ何も代償はもらってなかったですよね。今度は伊角君を先生に任せると言うことで、それに換えさせてください。いいですよね」
 確かに楊海の言うとおりなのだった。緒方はぐうの音も出ない。「礼はいらない」と言われた際、「高くつきそうだ」と予想していたような覚えはあるが、本当に高くつく結果になってしまったと思った。
 ため息をつく緒方をみて、楊海は笑っていた。