key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

孫引き御免

今日見に行ったブログの中で、佐藤学「教師文化の構造‐教育実践研究の立場から」と言う本の冒頭の文章が引かれていた。

 一般に語られる教師文化は矛盾に満ちている。人々は、教師の権威的体質を批判しながら、厳格な教育を要求し、教師の偽善的ふるまいを批判しながら、高潔な倫理と私心のない献身性を讃えている。また、教師の学問的意識や教養の不足を嘆く声の一方で、学識よりも人格だという俗論が後を絶たず、教師の保守意識を嘆く声の一方で、政治意識の過剰に対する警告が「中立性」を盾として繰り返される。さらに、教師の同族意識が批判される一方で、職場における連帯の欠如が問題にされ、専門的な知識や技術の不足を嘆く声の一方で、教師は専門家でなく一般人であるべきだという意見が述べられる。これら矛盾に満ちて語られる教師文化の実態と規範をどう理解したらいいのだろうか。

ものすごい納得できる。


先日、東京都の若い女性教員が自殺したというニュースを見た。実は私の友人も「先生には子供がいないから、子供の気持ちとかわからないよ」と保護者に言われ、ものすごく傷ついたと、昔、話していた。そのことを思い出した。これは必殺の一言で、こんなことを言われると、どんな言葉も無効化されてしまうのである。
その友人は小学校教諭で登録されたにもかかわらず、初任校は高等学校になってしまい、校長にイヤミを言われながら小学校へ転勤した人だった。*1念願の小学校教諭としての生活をスタートしたばかりだった。彼女は結局その少し後に鬱病で退職してしまった。突然の退職だったので、驚いて電話をかけてみると、やはりあまり理由は話したくなさそうだったが、いろいろ話をしているうちに上記のような話が飛び出してきた。原因はおそらくそれだけではないだろうけど、彼女にはものすごくショックな出来事だったんだろうな、と、話を聞きながら思ったのだった。あれから何年もたっているけれど、「注意するように」と医者からは言われているらしい。
これはおそらく無意識の発言で、この言葉を言った人は、こんなことを彼女に言ったことも記憶にはないだろうと思う。また、意図的にこういう発言をする人もいる。「これくらい言われても当然だ」とその人は相手に対して思っている。だからおそらくこの発言も、発言者の記憶には残らない。人間は時々そういうことをする。それが恐ろしい。

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私の母校も旦那の母校も世界史履修問題に関わっていることがわかったが、新聞を見ても別になんの不思議も感じないし、驚きもしなかった。やって当たり前の学校だと思うし、めまぐるしく主張を換え、珍奇な新教科の発明や再カテゴリ化を平気で行い、指示だけしてくる文科省に対して、やりきれない思いを抱いていることもとてもよく理解できる。「今度はあれとこれをやりなさい」とやらせるものの数は多くするが、その一方で、人材投入も資金援助も何もなく、大学・専学等の受験科目も減るばかりだ。願書に名前を書くだけで合格、なんてところも今時は珍しくないし。
例えば大学受験中心校でなくとも、就職や推薦での進路決定後に、学習に対して意欲を失った人というのは多いのではないかと思う。別に教科担当者のモチベーションや内容に変化があるわけではなく、これは受講者個人のモチベーションの問題なのだ。一般の受験の場合、1月なり2月までモチベーションを引っ張られるだけ、まだマシと言えるかも知れない。最初からやる気の欠片も持たない人を目の前にして、一年なり二年なり講義を続けるというのはものすごい精神的な苦痛だと思う。たいがいはMではないのでそんな苦痛を受け続けたらどうかなってしまうだろうし、なにより現場でいま求められていて、しなければならないことを優先したい。そういうことだろう。
目に見えて役に立つとわかったものしか重要視しない。役に立たない、立たなくなったと判断したら、平気で捨てる。そういう意味でも日本は実学の国なのだと思う。みんな近視眼的だ。
世界史を実施しているかどうかを調べるのもいいけど、「総合的な学習の時間」をどのくらいの学校でまともに実施しているかをもっとよく調べた方がいいんじゃないか?と、ふと思った。おそらく進学講習してる学校の方が圧倒的だと思うけども。

*1:知らない人は意外に思われるかも知れないが、採用=「(名簿への)登録」で、その登録名簿から人材選ぶのは校長の自由なので、こういう人事はよくあった。おそらく今でもよくあるだろう。来た話を断ると、次にいつどんな話が来るかわからないので、希望と違っても実際誰も断れない。