key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

句読点の、多い人。

 私は結構句読点を多く入れる方だと思うのですが、(実際、自分で読み返して、特に読点の多さにいらつくこともある。)そんなこともあって、饒舌文体の人にはちょっと憧れたりすることがあります。
 よく知られた作家で、読点が多いのはやはり太宰か。それと、これまではあまり意識していなかったんだけど、この間山田詠美を読んでいたら、読点が多いことに気づいた。
 句読点が多いと何がいけないかというと、文章にブツ切れ感が出ることだろうか。音読しようとすると、ブレスが多くなりすぎる。

 ところで山田詠美の少し前の対談を見たときに、ほとんど草稿などを作らない、という話があったような。驚いた。一気に書き上げてそれきりらしい。

 山田詠美の学校もの(『晩年の子供』の中のとか『僕は勉強が出来ない』とか)を読んだ時に、ほんとにこの人は教師の当たりが悪いというか、学校でいやな思いさせられてきたんだろうな、と思ったことがある。フィクションに出てくる「いい先生」って逆にすごく作り物っぽい感じがしてむずがゆくなるときがあるが、「ステレオタイプ」というわけでもないけど、何となく一様に無神経で頭が悪い存在としての「教師」が見えて、苦笑したくなったことがある。
 そりゃ、悪い人もいるだろうし、無神経な人も馬鹿な人もいるだろうが、そんな人はどこにでもいるよね。皆、自分が「そんな人」とは思っていないだろうが。学校は社会としていびつな構造のある場所だから、目に付くだけだろう。

 ちなみに私も教師の当たりは悪い方だと思う。「面白い人」「変わった人」はいたが、何かを与えてもらったとか、尊敬できた人はいない。そもそも何かを与えてもらおうと思ったこと自体なかったような。今日、仕事の合間の雑談で、「昔の先生は何も教えてくれなかったよね」という話をしていたが、本当にそうだと思った。授業で「目から鱗が落ちる」ような思いがしたことは、高校まではなかったように思う。
 しかし、「自分がやらないと何も解決しない」という気持ちにならないと、物事など何も覚えられないし、事態は進展しないというのはその通りなのだった。自分のことは自分で。「先生が教えてくれなかった」というのは、自分の成績が悪いことのいいわけにはならない。勉強しない自分が悪いだけである。聞く耳がないと何を聞かされても記憶には残らない。それに学校からはみ出す知識などいくらでもあるのだから、「教えられる」ことよりも「教えられないこと=自分で探して見つけなければならないこと」が多いのは当たり前なのだった。