伊角がホテルに戻ってみると、レセプションはもう終わっていた。名を名乗りフロントに取り次ぎを頼むと、楊海はじきに姿を現した。彼はまだワイシャツ姿だったが、腕はまくられ襟元はゆるんでいた。その姿が遠くに見えただけで、伊角の心臓は小さくはねる。
「どうしたの?」
伊角の目前まできた楊海は、にこやかにそう尋ねてきた。
その日は二度目の会見であり、場の雰囲気もあって、夕方よりは気持ちが落ち着いているような気がしていたのだが、本人を目にするとどうしてもいくらか緊張してしまう。伊角は楊海を正視できなかった。彼は恥ずかしそうに目を伏せたままで呼び出したことを謝り、わけを話して袋を差し出した。
「なに?これ」
楊海はすぐに中を覗こうとする。
「後で開けて下さい」
「どうして」
「オレが恥ずかしいので」
「恥ずかしいものなの?これ」
「普通のものですけど、目の前で開けられるのはちょっとオレが」
オロオロしている伊角が面白いらしく、楊海は笑っていた。
「楊海さんには、もういらないものかも知れないですから……」
「そんなこと言われると気になるな。なんなの?これ」
伊角は口を結んでいた。頬のあたりがじわじわと熱くなり、その熱はあっという間に首にまわった。
「そんなに恥ずかしいの?」
無言の伊角の目前で、楊海は笑いながら袋を振り、中の重さや大きさを確認していた。
「電化製品?」
伊角は肯定も否定もしなかった。
「この袋、たしかそうだよね」
「……」
「オレにはいらないかも知れないもの……。何だ?」
「あ、楊海さん、だから後で……」
楊海は伊角の制止を聞かずに、袋の口を止めていたテープをはがして、中を覗いた。そして無言で顔を上げた。楊海が真顔であることに気付き、伊角は反射的に目を伏せた。
「……あの時のこと、ずっと気になっていたので。同じのはなかったんですけど、それは最近出たばかりで、もっとずっといいみたいなんで……」
言い訳のように伊角が話をしているときにも、楊海は無言で彼を見つめていた。
「もう別の持っているかも知れないですけど……。あの、よかったら、もらって下さい……」
引きつりながら笑う伊角に、楊海は微笑みかけた。
「ありがとう」
「そんな。お礼がこんな遅くなってしまって、すみませんでした」
伊角は深々と頭を下げた。ようやく品物を渡せた安堵感と彼の笑いに許されたような気がして、伊角はほっと胸をなで下ろした。そして、和谷に「写真を撮ってこい」と言われたことを思い出した。
「あの、写真撮ってもらえませんか」
「写真?」
聞かれもしないのに、伊角は和谷との経緯を話して聞かせた。
携帯電話に付属のカメラを、伊角は滅多に使わない。もたもたしていたら、楊海に「貸して」と取り上げられた。
「これで撮ればいい?」
「はい」
「オレが受け取ったってわかればいいんだろ?」
「そうですけど」
楊海は携帯電話をしばらく眺め回し、「これかな」と呟くと、自分で撮影をすませた。
「はい」
「あ、すみません」
「で、それをどうするって?」
「メールで送れって……」
「へぇ」
デジタル機器の大好きな楊海は、伊角の携帯電話にも興味津々の様子だった。彼にジロジロ見られているのがわかり、伊角は何とも居心地が悪い。もともと操作に不慣れな上にひどく緊張をして、何度も操作を間違えそうになった。
「送れた?」
「送れました」
伊角は安堵の溜息をついた。楊海を意識して伊角がちらりと目を上げると、彼の視線は伊角の手元に注がれていた。
「……見ます?」
伊角は携帯電話を差し出した。
「いいの?」
「別に見られて困るようなものは入ってないですから」
「ほんと?彼女の写真とか、ない?」
「ないですよ」
楊海は笑っていた。伊角もそれにあわせて笑いながら、少し胸が痛い。楊海に対して、打ち明けられない思いを抱いている自分を、伊角は改めて自覚していた。
伊角は楊海に尋ねられるままにいくつかの機能について説明をした。楊海は付属のデジタルカメラに興味を持っているようだった。ひとしきり弄り回したあとで、彼は携帯電話を伊角に返してきた。
「今日はこの後は?」
「はい?」
「なにか予定とかある?このまま帰る?」
「帰りますけど」
楊海の真意を測りかね、伊角はきょとんとした顔で聞き返した。
「もう少し話したいんだけど、オレこれから子供ら集めて最後のミーティングなんだ。夜中になってもいいんだったら、後から電話するよ」
「え、……いいんですか?」
突然のことに動揺して、伊角の顔が僅かに強張った。
「……楊海さんも、早く休まれた方がいいんじゃ……」
そう言いつつ、期待に胸は膨らむ。
「大丈夫だよ」
楊海は笑っていた。
「それじゃ悪いけどここで。気をつけて帰れよ」
楊海は彼に背を向け、立ち去った。その姿が見えなくなるまで、伊角はその場に立ちつくしていた。忘れ物をしたことで、かえって楊海と話をする機会を得られたのが嬉しくて仕方がない。
彼はふと、手の中の携帯電話に目を落とした。
ほんのりと感じたぬくもりが楊海の残したもののように思われた。
彼はしばらくそれを眺めた後でポケットに戻したが、家に着くまでその手を戻すことは出来なかった。
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……この人はどこのヲトメですか?