key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・6』

 篠田の話から、「伊角」というのは、その内プロになるんだろうと緒方は思っていた。
 院生一組で上位を維持するだけの力があれば、もういつプロになってもおかしくはない。緒方自身も割に早い時期にプロになっていたし、中学生でプロ入りというのも稀にある話だったからだ。
 ところが、その年のプロ試験が終わり、週刊碁の紙上で合格者が発表されてみると、そこに「伊角」と言う名前はなかった。
 成績が良いだけでは合格できないというのも、事実ではある。緒方は拍子抜けをしたような気分になりながら、週刊碁を閉じた。
 毎年プロ試験の発表の時期になると、緒方は思い出して伊角の名を捜した。しかし、その名はいっこうに出てくる気配がない。九星会卒の仲間に会う機会があると、時々思い出して動向を聞いてみるが、「力はあるんだけどね」と、言うことで話が途切れる。要するにその程度なんだろうか、と、思いつつ、年に数回その名を思い出すことが続き、やがて、彼の目前に、進藤ヒカルという不可思議な少年が現れた。ヒカルのいる場に居合わすことが何度か続くうち、緒方はむしろヒカルに関心を寄せるようになった。そして伊角の名を忘れかけた頃、彼は伊角本人の姿を見る機会にようやく恵まれることになったのである。
 二十才以下のプロと院生を対象にした、若獅子戦という棋戦がある。緒方が既にその対象外となってから創設された棋戦で、出場できるのは、対象年齢のプロ棋士が16名と院生一組の16位まで(五月初旬の順位による)である。彼は弟弟子である芦原から、結果などについての情報を得る程度の関心は持っていたものの、実際に見に行くようなことはなかった。ところがその年の若獅子戦には進藤ヒカルが出場するという。ヒカルの対局を見たいが為に彼は若獅子戦を見に行くことにした。
 その他には特別な関心も寄せていなかった彼だったが、同じ会場内でおきたちょっとした騒ぎには、注目せざるを得なかった。
 大きな物音に反射的に振り向いてみると、中学生くらいの少年が、別の少年に殴りかかろうとしているのを、抑えられているところだった。
 緒方は当初、対局の中でなにかいざこざでもあったのだろうと思い、それきり関心は払わなかった。その少し前に、進藤が自らの悪手を好手に転換させるということがあり、目前の対局に注目していたいという気持ちの方が強かったのである。
 ところが、帰り際に、篠田と顔をあわせ、話を聞いてみると、どうやらそうではないと言うことがわかった。
 殴りかかった少年は、相手と対局をしていた友人が罵倒されたことに怒っていたのだという。罵倒された当の本人は、自分が怒るよりも少年を宥めようと懸命になっていたらしい。
「殴られたのは、この春に初段になった子なんだけれど、院生の頃からちょっとしたトラブルは抱えていてね。実はこういういざこざも初めてではないんだ。このあとも改めて一言注意しておこうと思っているんだが…」
 嘆息してそう語る彼に、緒方は、
「殴った方は、別に対局に関係がないんですよね」
 と、確認をした。
「そうなんだ」
「どうしてそんなことをしたんだろう」
 緒方は苦笑しつつ、尋ねてみた。
「さぁ」
 篠田はいまだ困惑しているようだった。
「罵倒された相手の代わりに怒ったのかな」
「そんな感じだね。殴りかかった和谷くんというのは、まあ、良い子なんだが、ちょっと元気の良すぎるところがある」
「大した熱血漢だな」
 緒方はそう言って笑ったあとで、
「ところで、その対局の結果はどうなっていたんですか」
 と、尋ねた。
「殴られた方が負けたんだよ。投了したのかな」
「相手はプロですか」
「いや、院生なんだ」
「負け惜しみに罵倒して、殴られたってところか」
「全く……。困ったもんだ」
 篠田はまた嘆息していた。
「なんて言う名前ですか」
 そう訊いたのは、緒方の気まぐれだった。
「殴られたのは真柴初段。溝口九段の門下」
 緒方は篠田が広げていた対局表を覗き込み、真柴という名前を捜した。
「相手は伊角くんという、院生一位の子でね」
 その名前を聞いて、緒方はすぐに成澤と篠田の話を思い出していた。
 彼は相槌を打ちながら、あの中にいた誰が伊角だったんだろうか、と、記憶を探ってみた。が、よく解らない。
「……ああ、そう言えば、以前緒方くんに話をしたことがあったね。あの時の二人が、今日対局していたんだよ。……正直なところ、力は真柴くんより上だからな。彼が勝っても、別におかしくはないんだが」
「この、勝った伊角というのは、どんな子なんですか」
「伊角くんねぇ……」
 彼は懸命に言葉を探しているようだった。
「背が高くて……、きみよりちょっと低いくらいかな。育ちのいい感じの子なんだけどね。お坊ちゃんタイプといったらいいか。今日はシャツにカーディガン姿だったかな」
 二人は会場に通じるドアの側で話をしていた。
 篠田は扉を開けて、中を覗き込むと、伊角の姿を捜していたようだった。
「あれだよ。伊角くん」
 緒方はその時、初めて「伊角」を認識したのだった。

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行間読みまくり。
久しぶりにコミックスを読み返しました。みんな顔が丸かった。