『遠い星』28
伊角の態度は慎ましやかだった。
不慣れな場であると言うことを考えれば、それが当然とも思われるが、とりあえず進藤ヒカルよりは常識を知っているらしい、と緒方は思った。
会の前半では、十段戦についてざっくばらんに意見や感想が交換されていた。伊角は終始姿勢を崩すことなく、真摯な態度で話に聞き入っているようだった。
その後間もなくして場所を移すことになり、篠田はそこで退席をすることになった。伊角は篠田について帰りそうな素振りを見せていた。
緒方はこれでとりあえず繋ぎが出来たと思っていたので、それ程強引に引き留めるつもりはなかった。伊角の印象から、彼のような人間に強引な振る舞いは逆効果だとも思っていたからだ。
ところが意外なことに篠田が彼を引き留めた。
「時間があるなら、もう少し勉強させてもらいなさい。こんなことは滅多にあることじゃない」
「はあ」
伊角は戸惑っているようだった。
「いろいろな先生に名前を覚えてもらって、可愛がってもらうといい。顔は広い方がいいよ」
篠田はそう諭すように話した後、緒方に声をかけてきた。
「申し訳ないが、彼をよろしく頼むよ。主賓の言うことなら、座が乱れてきてもそれなりに通るだろうから」
「わかりました」
緒方は内心笑みを浮かべながら、頭を下げた。
篠田の言葉を方便にして、緒方は伊角をずっとそばに置いておいた。
彼のことについては、成澤や篠田などと通じてある程度聞いてはきたし、ある程度彼自信で情報収集をしてもいた。しかし、正式には彼等はこの日が初対面である。緒方はなにも知らない振りをし、初対面の異性を口説くときのように慎重に伊角に話し掛けた。
外見通り世慣れない風の伊角は、緒方のことを少しも疑ってはいないようだった。彼はきわめて紳士らしく振る舞い、伊角に好印象を持たせるように務めた。
「終電の時間なので」と、退席をするものも出始めたので、その場は一旦お開きになった。主賓の緒方はその後も連れ回されることになっていたが、伊角はもう開放してやった方がいいだろうと思った。緒方は帰るタイミングを伺っているらしい伊角に、声をかけた。
途中から彼の仲間に引っ張っていかれ、新人らしく弄られていたので、伊角は緒方から声をかけられてほっとしたようだった。
「駅まで送ろうか」
「いえ、結構です。そんなに飲んでませんから」
目元がほんのり赤く染まっていたが、確かに話しぶりはしっかりしていた。
緒方は名刺を渡した。
「これも縁だ。何かあったら相談に乗るよ」
「あ、ありがとうございます」
大袈裟に頭を下げる伊角に、つい失笑してしまう。
「ああ、でもオレお返しするものがなくて……」
いくらか話をしたからか、伊角の口調は砕けてきていた。
「じゃあ、電話番号だけでも教えてもらおうかな」
緒方は携帯電話を取り出した。
「何番だ?」
伊角は自分の携帯電話の番号を告げた。聞いたそばから、緒方はそれを入力し、最後に発信のボタンを押した。伊角のジャケットのポケットから、着信音が聞こえてきた。伊角はあわてて携帯電話を取り出していた。
「それがオレの番号だから。よかったら登録しておいてくれ」
「はい」
背をむけかけた緒方を伊角が呼び止めた。
「今日はありがとうございました」
もう一度深々と礼をすると、伊角は「それでは失礼します」と足早に駅へ向かった。
緒方は伊角にそれきり会っていないし、連絡もとっていない。
十段戦の終わる少し前、彼は本因坊戦の挑戦者に決定していた。そのためその後には研究の焦点をすぐに桑原本因坊に絞っていった。もしかすると防衛のかかっている十段戦よりも熱が入っていたかも知れない。一昨年の雪辱をはらすべく、彼なりに必死だったのである。そうして日を過ごすうちに、楊海から連絡がきたのであった。
彼が楊海に対し、話を微妙にそらすような素振りを見せたのは、彼が明らかに伊角に荷担しているように思われたからだった。
伊角と知り合う前の楊海は、そうではなかったように思われていた。
緒方は楊海のことを、気さくに見えるがシニカルな面もある、面白い男だと思っていた。それが伊角に骨抜きにされたように思われたのである。見るからに無粋で、無垢なだけが取り柄のような青年に、なぜあの楊海が。緒方はなんだか解せないのだった。
楊海ばかりではない。
篠田は緒方が院生にあった時分から、時には厳しく時には(おおむねと言っても良いが)優しい院生師範として、院生達に慕われていた。同じプロとして付き合うようになってからもそういう印象に変わりはない。しかし、これまでは、どの院生、元院生に対しても分け隔てなく接してきた篠田が、十段戦の際には伊角を呼び出し、彼のことをひどく気にかけていた。
成澤にしてもそうだ。
自らの意志で脱会をしたという伊角を、特例として親善メンバー入りをさせたことからも、成澤の肩入れぶりはうかがえる。
あの青年のどこに、そんな風に人を引きつけるところがあるのか、緒方にはよく解らなかった。
これまでの伊角がなかなか表に出てこなかったこと、また、中国棋院にいた時分の楊海の話を思い出してみても、彼が卓越したなにかを持っているとは緒方には思われなかった。
プロ試験を全勝でクリア、新初段戦で桑原本因坊に勝利、等の話題は、彼のデビューに花を添えるのに十分なものだった。彼はこれから有望な若手の一人として名前を挙げられるような存在になっていくのだろう。
力のあるものなら、手合わせをしたい。その気持ちは変わらない。それに加えて、今の緒方には「伊角慎一郎という青年」に対する興味もあった。
十段戦の日になんとか繋がりは出来た。
緒方はこれからじっくり、伊角自身を探っていけばいいと思っていた。
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草稿草稿