key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

あのひとの記憶

映画『太陽』オフィシャルブック
アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』を見る。最終日の最終回。
画面は全体に暗い。落ち着いた、というか枯れたような色調で、画面は何となくぼんやりとしていて、時々「こことは違う、夢の世界」を見せられているような気になる。午睡の夢に見る空襲の場面、ラストのスタッフロールのバックに映された、煙ったような東京の風景は、幻想的で、美しいとつい思ってしまう。
遠景で見ると、イッセー尾形は、私の記憶の中のあのひとの姿に重なる。どこかぎこちない立ち姿で歩く様子なども、なんだか懐かしく感じてしまう。あのひとの声は、園遊会の際の画像などで何度か聞いたことがあったけど、口癖のようにもとらえられている「あ、そう」という言葉の一種投げやりな調子は、笑いそうになるくらいだった。最後の方に疎開していた夫人(桃井かおり)が帰宅し、二人きりで話をする場面がある。そこでは夫人まで「あ、そう」と同じように言うので、つい笑ってしまった。似たもの夫婦のようにも思われたので。この場面は無邪気さがあり、また拙い愛情表現もあり、ふたりの結びつきを思わせる。ほほえましい場面。「イッセー尾形の芝居を見たい」と言っていた旦那を伴って見に行ったのだが、彼は「(皇族同士の会話って、)本当にあんな風なんじゃないかと思った」と話していた。
あのひとはいつも何か言いたげに口もとを動かしている。侍従長佐野史郎)と対している場面では、それが、無言の抗議のようにも見えた。人間でありたいと願い、神格におこうとするものにこころを閉ざそうとする意志が彼の仕草や、表情から感じられる。侍従長はかたくなで、彼をこれまで通りの存在として扱おうとし、彼の意図を台無しにする。そのことに対する怒りが、顔の表情に感じられたように思う。米軍の通訳も、またしかり。敬意のあまり、彼の気分を害していることに気づかない。チャップリンに関するやりとりのところで、特にそれが感じられる。
平家ガニについての学術的な説明が、いつのまにか、開戦に関する記憶を想起させ、まったく違う話になってしまう。唐突な話題転換に思われる場面が多くあるので、「この人なに?」と思う人もいるだろう。ライトを点灯させ、「電気、通ったね」と侍従長に微笑みかけるところや、夕食会を中座したマッカーサーを待つ間、テーブルのろうそくを消して回る場面、米兵に写真を撮らせる場面で薔薇に顔を寄せたり、帽子を脱いでみせる様子など、無邪気に思えるところもあれば、真珠湾と広島の話題で、マッカーサーと静かに対立しあったり、戦争の原因について考えるいくつかの場面では、対照的に非常にシビア。しかし「一貫していない」というよりは、「そういう異なる面が同居している人なのだ」と納得させられる。
米兵が皇居に写真を撮りに来る場面で、「15時間もかけてきたのに、廃墟しかない。ここだけが天国のようだ」と通訳に話しかける。彼がマッカーサーと会見をするために車で街を通りかかる場面があるが、そこは灰色の世界。崩れた建物と、瓦礫、灰、怪我に横たわる人、喧嘩をする人などが映る。皇居は緑にあふれ、鳥が住まい、花が美しく咲いている。戦争中でも日課には海洋生物の研究が組み込まれており、午睡する時間がある。朝食にはパンやハムなどが幾皿か並ぶ。彼は別世界の住人であり、そうであることをもとめられてきたひとなのだから。
もちろん、これは完全に史実に基づくものではない。それでも私は改めて、昭和という時代について、その象徴であった人について考えてしまった。昭和という時代が終わろうとした頃の、深夜のテレビ画面から毎夜伝わってきた沈鬱さを思い出した。
本編上映前に流れた予告に、『めぐみ』があった。『めぐみ』の監督は、『ピアノ・レッスン』を撮ったジェーン・カンピオン
『めぐみ』も『太陽』も日本人についての映画なのに、これらの映画は、日本人には撮れない。たとえ撮っても、彼らにはかなわないのではないかと、スクリーンを見ながら思ってしまった。