ある日の出来事2
「これから行きます」と、電話が来てから10分もしないうちに、緒方の家のチャイムがなった。通常10分から15分はかかるところだ。苦笑しながらインターフォンで対応した。
やがて顔を出した伊角は、ご褒美待ちの犬のような目をして立っていた。
緒方は無言で応接セットの方を示した。センターテーブルの上には、既に納戸の奥から取り出してきた古いビデオデッキが置かれている。
「失礼します」
伊角は緒方を一顧だにせずに応接セットに歩み寄り、彼の指定席に腰を下ろした。
「すぐ見るんだろう?」
「はい」
「古いテープだからどこか伸びてるかも知れないが」
「かまいません」
鼻息を荒くしている伊角を一瞥し、緒方はため息混じりにリモコンのスイッチを入れた。
伊角の興奮ぶりが理解できないわけではなかった。自分も所持していることを忘れてかけていた古い対局だが、行われた当時にも随分話題になっていたし、いまでも名対局のひとつとして語り継がれているものだ。伊角に言われてしばらくぶりにテープを取り出し、昔自分自身も何度も見返した録画であることを思い出した。
ただ、今日の彼のあからさまな興奮ぶりには「もっと違う機会に、自分に対してそのきらきらした目を向けてくれないものか」と思ったりした。
「コーヒーでいいか?」
緒方は腰をあげながら伊角に話しかけた。
「はい」
伊角の返事を聞いて、緒方は一度振り向いた。
伊角は小さく口を開けて画面を見つめていた。
緒方はまた小さく嘆息して、キッチンへ引っ込んだ。
おおよそ30分後。
緒方がコーヒーを手にリビングに戻ってみると、伊角は食い入るようにしてビデオを見ていた。
「コーヒー、入ったぞ」
緒方の予想通り、返事はなかった。
やれやれ、と思いつつ、彼は伊角とは反対側に腰を下ろした。
いつものことながら、ものすごい集中力だ。おそらくもう伊角の頭の中には、ここが緒方の家であることも、隣に緒方がいることも、彼の目の前でコーヒーが自分の存在に気付いて欲しいと言わんばかりにかぐわしい香りを立てていることも、なにも入っていない。こんな時には、緒方が何か仕掛けても、伊角は全く反応しない。手を払いのけるようなことはなく、緒方の好きなようにさせることをゆるしていても、目だけは碁盤なりテレビなりから離さないので、緒方の方ではまるで人形でも相手にしているようで、嫌になってしまうのだった。
伊角が違う世界に一人行ってしまったことを悟った緒方は、あきらめて自分もビデオに目を向けた。
伊角が我に返ったのは、それから約二時間後のことだった。
気付くとテレビの画面はもう砂の嵐になっていた。目の前には、手つかずのままで醒めたコーヒーが置かれていた。
「またやってしまった」と思い、焦りながら周囲を見回す。
緒方はすぐ横に座っていた。
頬杖をついて、目を伏せている。伊角に気付いた様子もないので、居眠りでもしているのかと、伊角はそっと近づいて確かめてみた。
「……先生?」
伊角は小声で呼びかけてみた。
反応はなかった。
間近で眺めてみると、長いまつげの下で、わずかに目は開いていた。思考中であるらしい。「またか」と思い、ふと見ると緒方の前のコーヒーもほとんど手つかずで冷めていた。
伊角はそのままそろそろと身体を引くと、緒方の邪魔をしないように、そっと台所へたち、いつものように新しいコーヒーを入れる準備をはじめた。
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ようやっと続きを書いたが、毎度ながらヤマも意味もオチもない。
今度801タグ作った方がいいんじゃなかろうか。
二人でソファの端と端に座り、それぞれのタイミングでビデオに夢中になっていると言うのと、実はお互い相手のそう言うところには呆れているという図が思い浮かんだので、それを書いてみたかっただけでした。