『遠い星・19』
ロッカーの扉にスーツがつるされてあるのを見て、伊角は楊海に「棋戦ですか」と訊いてきた。
「うん。ちょっとな」
楊海はプレス済みのワイシャツを探し出すと、ベッドの上に投げ出した。
「明日の朝出て、帰りはぁ……木曜かな」
楊海がふと見ると、伊角は気落ちした顔をしていた。
「そうですか。頑張ってきてくださいね……って、オレが励ますのも変ですけど」
そうして笑う様がどこか痛々しくて、楊海は反射的に彼から目を反らした。
「飛行機のチケットとれたか?」
「はい」
「見せて」
差し出されたチケットは北京から成田までのもので、日付は金曜のものになっていた。
「金曜で間違いないんだよな」
楊海は伊角にチケットを返した。
「はい」
その後は不自然な間があり、伊角はその間を誤魔化すように、「……あ、どこの棋戦なんですか」と尋ねてきた。
「ソウル」
「ソウル……あ」
合点がいった、という表情をして、伊角は顔を綻ばす。
「そういうわけでちょっと長くなるけど……」
「李老師にはばれないようにします」
「あ、あと……」
「楽平は早く寝かせるようにします」
楊海の思考を読むようにそう言うと、伊角は、
「それで、いいですか?」
と尋ねてきた。
「うん。頼むな」
そうして二人は笑い合う。
すっかり心を許したような伊角の笑顔に、楊海の胸がちくりと痛んだ。
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「なんていうか……かわいいですよね」
ぼんやりと楊海が呟くと、隣に座っていた緒方はぎょっとしたらしく、目を丸くして楊海の方を見ていた。
「あ、オレ、言葉間違えました?」
緒方は頬を引きつらせていた。
「かわいい……のか?」
「変ですか」
「変じゃないか?」
「はあ」
「男だろう」
「まあそうなんすけど」
「それも、19?20?そんなところだったろう?確か」
「19だって言ってました」
「オレが見た感じ、結構身長もありそうだったが」
「そうですね。先生より少し低いくらいかな」
「それを可愛いって言うのか」
緒方の問いかけに、楊海は一拍の間をおいて、
「言わないですか」
と、答えた。
「お前は19の時に可愛いなんて言われたことがあったか」
「あるわけないでしょ。そんなこと」
なにを冗談を、といいたげに楊海は大口を開けて笑っている。
「オレもないし、例え今オレが19でも、可愛いなんて、言われたかないよ」
緒方はポケットから煙草を取り出した。
彼等はソウルにいた。
日本の企業主催の国際棋戦の準決勝が行われているのである。
打ち合わせていたような、そうでないような再会の機会を得て、彼等は自然隣り合い、話を始めていた。場所は対局室と同階に設けられた喫煙所。話題はもちろん伊角に関してである。
「なんていうか、……オレに対して全然警戒心持ってないんですよね。オレがここに来る日なんかも、腹見せて寝てましたから」
緒方は一応相槌を打っていたが、呆れた顔をしていた。
「……普通、警戒心を持った相手の所に二ヶ月も泊まろうと思うか?」
楊海は力無く笑っていた。
「お前、もしかしてそんな趣味があったのか」
「そんな趣味って、どんな趣味ですか」
「ガタイのいい19の男を可愛いなんて思うような趣味だよ」
楊海は苦笑している。
「……オレのアイドル好き、先生だって知ってるじゃないですか」
「それとこれとは別だってことなんだろう?」
涼しい顔で煙草を吹かす緒方の顔を、楊海は苦々しげに見て、自身もポケットから煙草を取り出した。
「アイドルも好き。彼も好き。そういうことなんだろう?」
「……勘弁してくださいよ」
「まあ、お前がどういう趣味を持っていようが、オレには関係のないことだがな」
そうして緒方はまたふうと煙を吐き出した。
「こうなると、お前の判断は公正とは言えなくなるな」
「そんなことはないですよ」
「そうか?私情が混じっているんじゃないのか?」
「そんなものは混ぜていません」
「ふうん」
あからさまに信用をしていなさそうな緒方の態度を、楊海は横目で見て苦々しく思っていた。
「別に虚偽報告はしていませんよ。彼が真面目なのは本当のことだし、リーグ戦でそこそこいい成績あげているのも本当のことです」
「まあ、もうすぐ七月だからな。プロ試験が始まってみれば、おのずと実像は見えてくるだろうが」
「今年はいけますよ」
「なるほど」
「来春にはプロです」
「そうなるといいな」
緒方のスタンスは変わらない。楊海は溜息をつく代わりに煙草を一服した。
「……先生も話をしてみれば、わかりますよ」
「彼のかわいさが?」
緒方は徹底して茶化しにかかっている。楊海は煙草をもう一服した。
「それにしてもお前も二ヶ月ご苦労だったな。来月になったら、また改めて何か贈るよ。何がいい」
「いや、もう別に……いいっすよ」
「MDプレイヤー一つでいいのか」
楊海は苦笑した。緒方に都合してもらったMDプレイヤーは、結局趙石に取られたままだ。しかしその経緯を緒方に話す気はなかった。それに、結局この二ヶ月は、伊角の面倒を見ることを自分でも楽しんでいた。
「……いま、そんなに欲しいものも思いつかないんで、保留ってことで」
「高くつきそうだな」
「先生のもらう賞金に比べれば、どうってことないですよ」
緒方に少し面白くない顔をさせたところで、人のざわめきを感じた。対局会場の方に目をやると、人の出入りしているのが見えた。
「終わったかな」
「行ってみましょう」
二人は今まさに終了したらしい対局の勝敗について話をしながら、その場を後にした。