key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』38

 塔矢夫妻に話したことに嘘はなかったけれど、緒方はそれまでそれほど真剣に結婚を検討したことはなかった。
 一人暮らしが長く、もうすでに自分なりの生活スタイルが出来上がってしまっていたし、誰かと同居することなど想像したこともない。その時々で深い付き合いのあった女を家に上げたことはあるし、泊めてやったこともある。しかし一緒に暮らしたいと思うほど熱を上げた女もいなかった。
 このまま独身生活を続けていても、彼自身別に不自由もないし、一昔前に比べると、世間の風当たりもそう強くはないように思われる。ただ、彼の所属しているのは、新しい風潮よりも古いしきたりを大切にする社会だ。その社会を形成している人々の意識は保守的で、伝統を重んじる。その社会で自分がこれからも生き、そしてその中でそれなりの地位を築いていくためには、いずれ不本意ながらも彼らの価値観にあわせることは必要になるだろうと考えてはいた。
 そう言うことで言えば、相手は誰でもいいのだよな、と、緒方は考えた。別に今現在相手を好きではなくても、将来的に好きになれればいいのである。長期間生活をともにする上で、我慢できないような欠点が見あたらず、好感が持てれば、結婚相手としては申し分ないはずだ。
 緒方は試しに沙織のことを、結婚相手として許容できるかどうかという視点で眺めてみた。
 華やかさには欠けるかも知れないが、清楚な印象の沙織は、しかるべき場に連れ出してもそう恥ずかしくはなく、好意的に受け入れられそうに思われた。声も高からず低からず。余計なことを言うたちでなければ、彼女のはきはきとした受け答えは好感を持たれるだろう。それに父親が塔矢名人の後援会でそれなりの役に就いているのだから、棋士の妻の役割や、後援会との付き合い方なども理解しやすいに違いない。
 そう考えると、こんなに自分にとって都合のいい相手との見合い話はそうそうないのではないかという気になってきた。
 この話が彼女の方から持ち込まれたものだと考えると、自分の心一つですんなり話は進んでゆくだろう。そうなれば、彼女の父親にいろいろ助力を頼まなければならなくなることもあるのだろうと思うと、首に縄をつけられるようであまり面白くはないのだが、囲碁棋士という職業に理解のある身内を得るメリットと、将来的に多少息苦しくなるかも知れないというデメリットを秤にかければ、この場合、メリットの方が大きいように思われた。
 その日は適当に沙織の相手をしてやって、いい思い出の一つも作ってやろうという気でいた緒方は、それから少し真面目に彼女のことを観察し始めた。


「沙織さんは、おつきあいをされている方はいらっしゃるんですか」
 緒方が問いかけると、沙織は小首をかしげるようにして彼を見上げてきた。
「いいえ」
 何故そんなことを尋ねるのかと言いたげな表情で沙織は答えた。
「先生こそ、おつきあいされている方がいらっしゃるんでしょう?」
 朗らかに笑いながら尋ねてくる彼女に、緒方は、「そう思いますか」と微笑みつつ返した。
「実は父は私に、緒方さんはいろいろとおつきあいのある方なんだから、お前なんかは相手にしてはもらえないだろうと、何度も話をしていて。それに私もきっと先生にはおつきあいされている方がいらっしゃるんだろうなぁと思っていましたから」
 沙織の微笑みを会話の余韻を味わうように眺めた後、緒方は「いませんよ」と一言答えた。
「お父様がおっしゃるように、私も確かにいろいろと付き合いはあるんですが、継続的な付き合いのある方というのは、今はいないんです」
 沙織は目を瞬かせていた。
「沙織さん」
「はい」
「答えにくいことを承知でお聞きしますが、私を指名されたのは何故ですか」
 沙織はさすがに無言ではあったが、瞬きを何度かしただけで、表情を変えることはなかった。
 緒方は話を続けた。
「正直に申し上げますが、私は、見合いに私を指名した女性に興味があって、この場を設定していただきました」
「……はい」
「これは一応仮定の話として聞いていただきたいんですが。例えばあなたはまだ結婚などするつもりはないんだけれど、お父様の手前、一度くらいは見合いをしておかないと、と、思われて、それで私を相手に選ばれたのであれば」
 沙織はまっすぐに緒方を見つめてきていた。
「お望み通り、この話は私から断らせていただきますが」
 緒方は努めて優しく微笑んで見せた。
「それとも沙織さんは、私との結婚を望んでいらっしゃるんですか」
 沙織は少し首を傾けた。思案しているようだった。
「あの……」
 沙織は発語したが、まだ言葉を選んでいるようだった。
「今回のお返事をいただいた際に、先生は”本当に会うだけなら”とおっしゃられたと聞いていましたから、私は今日はこれきりでご破算になるものと思って、それ以上のことはあまり考えずに来たんですが……」
 緒方は腕組みをして彼女の様子を眺めていた。
「私としては見合いは口実で、先生にお会いしてみたかったと言うのがどちらかといえば本当なんです。先ほどお話ししましたけど、家でお見かけするようなことがあったり、雑誌を見る機会があって、先生に興味はありました」
「興味、ですか」
 緒方は苦笑した。
「一目惚れだというのなら随分嬉しかったんですが」
 沙織は申し訳なさそうに微笑んでいた。
「惹かれるものがあったとは思います。いつからか意識して記事を探したりするようにはなっていましたから」
「お父様は、それは?」
「知らないと思います。私は家を出てしばらく経っていますし」
 沙織は高校を卒業後、家から通うには少し距離のある大学へ進学したため、現在は実家で管理している賃貸マンションの一室に住んでいるのだと話していた。
「もし、私があなたとの結婚を前向きに検討していきたいと言ったら、どうします?」
 突然の緒方の言葉に、沙織は目を瞬かせていた。
「あの、それは……」
 沙織の言葉を遮るように、緒方は話を続けた。
「あなたがこれきりのつもりでいらしたのなら、私もそのつもりで正直にお話しします。これから話をすることは、できれば今日限りのこととして忘れてしまってください。いいですか」
 沙織は戸惑いながら「はい」と答えていた。
「私は別に結婚をしないつもりはないので、いつかは見合いでもしようかと思っていました。ただ周囲はそんな風にとらえてはいなかったようで、これまでは見合いの話はなかったし、私もわざわざセッティングをしてもらうほどの必要を感じてはいなかった。実はそれだけのことなんです」
 緒方はそこで一息ついて話を再開した。
「そういうことで、これがいい機会でもありますから、私はこの話に乗っかるのも悪くはないと思っています」
 緒方がちらりと眺めたところ、沙織は冷静に話を聞いているようだった。
「あなたはどうですか。この話に乗る気はありますか」
 沙織はしばらく思案した後に、「先生がお見合いを選ばれた理由は教えていただけますか?」と、聞き返してきた。
「素朴な疑問なんですが」
「いいですよ」
 緒方は薄く笑った。
「私は付き合う人間と一緒に生活する人間は別だと考えているんです。私にとってデートの相手というのは、ちょっとした御馳走のようなもので、それを毎日食べたいとは思わない。毎日食べられるものというのは、特別好きでもなく、そう嫌いでもない、わりにありふれたものではないかと思うんです」
 沙織は黙って話を聞いている。緒方は話を続けた。
「それと恋愛結婚というのは、たいがい熱もきわまったところで決断するものでしょう。私の周りにも、そう言うのがいるんですが、端から見ているといろいろ思うところはあるわけです。結婚は契約でもありますし、周囲も巻き込みますから、そんなに簡単に反故には出来ないとすると、冷静な状態で選んだ相手の方が長く続くんじゃないかと。それでは見合いがいいだろうと思いました」
 緒方は「ご理解いただけましたか」と話を結んだ。
「お話しはわかりました」
「ではそのほかにご質問は?」
 沙織はやや目を伏せている。少し眉をひそめるようにする彼女の思案顔を、緒方はもう覚えてしまった。
「……もし私がいまお聞きした先生の思惑も承知した上で、このお話に乗る気があると言ったら」
 沙織の落ち着いた声と柔らかな口調は、彼女の言葉の鋭さを緩和することはなく、むしろ際だたせているようにも思われていた。
「先生は本当に私と結婚なさるおつもりですか」
「あなたが本当に私でよろしいとおっしゃるなら、やぶさかではありません」
 緒方は余裕の笑みを返した。
 沙織の答えがないので、今日はこの辺で話を締めようかと緒方が口を開きかけた時、沙織が突然発語した。
「気にかかることが一つあります」
「何でしょう」
「私がこの後のことを考えていないとお話ししたのは、先生にお付き合いされている方がいらっしゃるだろうと考えていたことの他に、私の身の上自体が先生にはあまり好ましくないのではと考えていたからなのですが」
 よどみなく話し続ける沙織の様子を緒方はじっと見つめていた。緒方と視線を合わせていることを、沙織は特に苦にしている様子もない。棋士仲間でも時々耐えかねて目をそらすほど強い彼の視線は、特に跳ね返されることはなく、そのまま彼女に吸収されてゆく様だった。
「父は今は塔矢先生の後援をさせていただいていますが、先生が私と結婚と言うことになれば、いずれは先生の後援にも関わることになるかと思います。そうなれば先生は私と縁を切りにくくなるのではないですか。父は人柄だけが取り柄で才覚はあまりありませんから、取り仕切りなども上手くはありません。うちは事業的にも今以上に大きくなることはないとも思いますから、なんにせよ先生にご迷惑をかけることがあっても、私がいては父を邪険には出来ないでしょうし、逆に私を疎ましく思われても、父がいれば、私を容易には遠ざけられないのではないでしょうか」
「縁を結ぶ前からそんなことは考えられなくてもいいんじゃないですか?」
 緒方が笑いながら言うと、沙織も微笑みながら、
「それでも先生にとっては当然予想されるリスクですから」
 と、返した。
「拘束されるのはお嫌いでしょうし」
「私にリスクがあるなら、沙織さんにもリスクはあるんじゃないですか」
 緒方が冗談めかして問いかけると、沙織はまた思案顔をしていた。
「私のリスク……。なんでしょうね。先生を思っていらっしゃる方からは、恨まれるかもしれませんけど」
「お父様やお兄様に反対されたりしないでしょうか」
「二人とも驚きはするでしょうけども。……反対されるでしょうか?」
「されるかもしれませんよ。私は初対面でこんなひどい話をするような男だし、経済的に安定しているとはけして言えないような仕事に就いていますからね」
 沙織は少し眉をひそめていた。思案顔のようにも、「悪い冗談を」を言いたげにも見えた。
「先生、本当に私でよろしいんですか?」
 少しの間をおいて念を押すように尋ねた沙織に、緒方は「それは私から沙織さんに伺いたいことですが」と返した。
「……私は」
 沙織は発語した後で、また少しの間をおき、一度伏せた目を上げた。
「先生がもし本当に誰でもいいとおっしゃるのなら、……そのうちに私を含まれるのであれば、……私はこのご縁を他の方に譲りたくはないです」
 彼女は一度そこで言葉を切り、付け加えるようにまた、
「誰でも同じなのであれば、私を選んでください」
 と、言った。
「そうですか。ではそうしましょう」
 沙織を送り届けた帰り道で、その日のことを思い出しながら、緒方は「おかしな一日だった」と思った。
 物事が進むときには流れるように進展をしてゆくことがあるというのは理解しているものの、「見合い」とは名ばかりの会見の筈が、気がついたら自分からあけすけに話をし、積極的に事を運んでいた。話をしたこと自体は別に後悔はしていない。たとえ沙織以外の女性が相手であっても、結婚を意識したときには、話をしておかなければならないことだと考えていた。話の内容自体が相手に失礼なものであることももちろん承知してはいるが、後になってから不実だなんだとなじられるよりは、あらかじめそういう男なのだと認識されている方が気が楽なのだ。それにしても別に「一生涯愛せない」と言っているわけではない。彼自身、自分がそれほど非情だとは思っていない。「愛せない」と言うことをずっと秘密にし続けて、相手に愛を語る方が、自分よりはよっぽど不誠実だと感じていただけだった。
 緒方は沙織とその後も数度会った。あけすけなようなそうでないような会話を重ね、自室にも招待をし、会見の回数も片手では数え切れなくなった頃、彼はシーズンオフのために帰国中だった塔矢夫妻に婚約する旨の報告をした。夫妻は数ヶ月前の一件はすっかり終わってしまったことと思いこんでいたようで、彼の報告にはひどく驚いていた。
「全く君は。付き合いが長いのだから、もう少し私の身体を労ってくれないか」
 あきれたようなため息とともにつぶやかれた言葉に、緒方は「すみません」と苦笑した。

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 おかしな人たちだ……。要再検討。