『遠い星・23』
その緊張がいつから続いているものなのか、彼にはよく解らなかった。
夢なら数え切れないほど見た。
大切な二ヶ月の思い出を反芻するようなものも見たし、再会の機会を文字通り「夢見て」のこともあった。目覚めたときには決まって酷い動悸がしており、身体は興奮していた。 彼はそんな風にわかりやすくできている自分の身体が時々恨めしくなる。しかし、どうしようもなかった。身体だけが勝手に興奮をするわけではない。胸の内に――普段はないことのようにして誤魔化していても――確かに思いがあるから、その結果が身体にも表れるのだ。それが自分でもわかっていた。もう半年以上もそんなことが繰り返されていたので、彼自身が二十歳の誕生日を迎える頃には、「大切な人を汚している」という罪悪感よりも、どうしようもない自分に対する諦念のほうが強かったかも知れなかった。
深く溜息をつきながら、後始末をして、着替えをすると、彼はコンピューターの電源を入れ、メーラーを立ち上げた。
新着はなかったが、彼はそのまますぐに受信トレイを開き、昨夜送られてきたメールを開封した。
昨夜も、何度も読み返したメールだった。
内容は用件のみの素っ気ないものだった。来日と離日の飛行機の時間と、滞在中の簡単なスケジュールが記載されていた。
同じように「プロ」とは言っても、向こうは国家公務員である。仕事で来る以上、余裕のある来日日程になるとは思っていなかった。それでも知らされたスケジュールのきつさを見ると、嬉しい反面で酷く残念だった。少しゆっくりと話をする時間が取れるかと思っていたのだが、結局向こうから指定されたレセプションの前くらいしか隙はなさそうだった。
視界の片隅に、小さな紙袋がうつる。
買い物に付き合わせた和谷が言っていたように、もしかすると何か他のものの方が良かったのかも知れない。買い物を終えた帰途で、もうすでにそう言う気持ちが湧いてきていた。和谷が帰りの電車の中で「ちゃんとみとどけねぇと」と言っていたのは、長年の付き合いから、そのように後悔しがちな彼の性質を熟知しているからなのだろう。
MDプレイヤーに殊更拘りを持っていたのは、やはり中国にいた際に、自分のせいで彼のものが人手に渡ったということが気になっていたからだった。
「オレが勝手に賭けたんだから」
と、何度もいわれはしたが、雪辱を試みたにもかかわらず、取り返すことが出来なかったという苦い思い出が、彼の胸をいつまでも痛ませていたのである。
北斗杯レセプションの当日。
伊角がそろそろ家を出ようかと思い、支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
和谷が立っていた。
「あれ」
意外なことに驚きはしたものの、伊角は「いま出ようと思ってたんだけど」と、彼を家に迎え入れた。
「待ち合わせ、してたよな」
「うん。だけど別にいいじゃん」
「近くまで来てた?」
「まあね」
和谷は当たり前のように彼の後について二階へ上がる。
「いま支度終わるから、ちょっとまって」
「うん」
和谷はベッドに腰を下ろして、伊角が支度を終えるのを待っていた。
部屋の中を見回している和谷に気付き、伊角は「なんだよ」と尋ねた。
「うん?何でもねぇけど。久しぶりだから」
「別に変わりないだろう?」
和谷の返事がなかったので、伊角は振り向いた。
「伊角さんの部屋にコンピューターあるって、なんか変な感じ」
「どうして」
「なんとなく。……使えてんの?」
「ちょっとはね」
伊角は笑いながら答えた。
「何してんの?」
「別に、……普通だよ。メールとか、サイト見に行ったりとか」
「ネット碁出来るようになった?」
「なんで?」
「今度やろうよ」
「なんでお前と」
伊角は笑うと「お前とはいつでも打てるじゃないか」と続けた。
和谷は呆れた顔で溜息をつくと、「そりゃね」と答えた。
「もう支度できたよ。出よう」
伊角は先にドアを開け、階段を降り始めた。
「伊角さん」
見上げると、和谷は手に見覚えのある紙袋を持っていた。
「忘れ物」
和谷はにやりと笑った。
強張った顔で、伊角は「どうも」と袋を受け取った。
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とりあえず、ここまで。