key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・14』

 その日緒方が捕まったのは、中国棋院での夕食時間が終了しそうな頃だった。
 腹の虫がなるのを「これが終わればメシだ」と宥めつつ電話をしていた楊海は、緒方の声に正直安堵した。
 伊角が予定外にこちらに残ることになったことを伝え、「ちょっと声かけてみても良いですかね」と、尋ねると、緒方は、
「お前がどんな風に行動しようが、オレの関知するところじゃないだろうが」
と、言いつつ、
「それは、伊角が多少なりとも興味の持てる人物だと、お前が判断したと考えて良いんだろうな」
 と、楊海に確認をしてきた。
 楊海は苦笑し、
「今のところは、悪くはないって程度ですけど」
 と、前置きをし、
「とりあえず、なんかいい話があったら、すぐに知らせるようにしますよ」
 と、話を納めようとした。
「それじゃあ、また連絡がくるのを待ってる」
 緒方が電話を切る間際、「あ」と楊海は思い出したように突然声を出し、
「新十段、おめでとうございます」
 と、ついでのように告げた。
 緒方は苦笑し、「どうも」と返して電話を切った。


「へえ、君。なに?日本から勉強に来たんだって?」
 楊海が声をかけると、伊角はびくりと身体を震わせ、きょとんとした目で彼を見上げていた。
 中国語に囲まれていたところで、急に日本語が聞こえてきて、驚いたらしい。
 見上げるその目には僅かに縋るようなところも感じられて、楊海は捨てられた子犬をみるような気がして、笑ってしまいそうになる。
「今日はオレ、一日部屋にいたからさ」と言い、名前を名乗ると、伊角は少々訝しげな表情をし、頭を下げていた。
 もしかして、ちょろちょろと内偵していたところを目撃されていたんだろうかと思ってもみたが、どうやらそうでもないらしい。突然やって来て親しげに話し掛ける男にただ戸惑い、警戒をしているようだった。
 伊角はホテルに宿泊しているというので、楊海は試しに自分の部屋へ誘ってみた。
 別に本気で誘ったわけではない。ベッドが空いているのは本当のことだし、来たら来たで内偵には都合が良いのだが、伊角の反応を見たかったのだった。
 すると返ってきたのは、「外国人はここには泊まっちゃいけないと聞いてますが……」と言う言葉だ。
 お堅いな、と、楊海は感じたが、真っ当な反応なのかも知れないとも思っていた。
 初対面の人間に突然部屋に来ないかといわれて、変に思わない人間はいないだろう。まして彼は日本人だ。たとえ乗り気であっても、初めからそんな素振りは見せず、最初は固辞してみせるのが日本人の美徳なんだといつか聞いたことがある。楊海にしてみるとその辺りが理解しかねる部分で、緒方と自分が付き合いが出来ているのも、緒方精次という男が、楊海の知る日本人の中ではわりに率直な物言いをする部類だからだった。
 伊角は見るからに疲れていた。あまり戦績も良くないのだろう。落ち込んでいるようである。あまりしつこく誘っても変に思われるので、楊海は適当なところで話を切り上げ、伊角の側から離れた。
『何話してたの?楊海さん』
 すぐ側にいた後輩に呼び止められて、『別にぃ』と答えたが、その後で思いついたように、
『なぁ。彼って、ずっとここで対局してたのか?』
 と尋ねてみた。
『あちこちでやってるのを黙って後ろから覗いたりとかしてたけど……』
 そう答えた彼は、『なあ』と横にいる友人に同意を求めた。
『さっきは藍が早碁にさそってたから、オレ達も側でみてたんだけど、あんまぱっとしなかったなぁ』
『ふうん』
『諦め早いっていうか。読みが浅いよな。……あんなもんなのかね』
『なんか雰囲気暗いからさ、声かけづらいんだよな』
『言葉わかんねぇし。興味あるけど、声かけたらあっちは妙におどおどしてるしさ』
 ちらりと振り返ると、伊角は俯いていた。
 楊海が出口へ向かっていたところ、着信専用電話のベルが鳴り出した。
 電話が鳴ったときには、一番近くにいる者がとるのがルールだ。その時には楊海が一番近い位置にいたので、彼は仕方なく電話をとった。
 伊角への電話だった。
 彼は伊角を呼び、受話器を渡すとその場を離れた。
 受話器を渡したときの伊角の暗い表情に、楊海は、「こんなところで終わりなのかね」と思いつつ、階段を上っていった。