key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・13』

 夕食後、趙石は一人で楊海の部屋に来た。
 楽平は「風呂に入る」と言って、趙石とは部屋のドアを出たところで別れたらしい。おそらくは、楊海からまた口うるさく言われると予想してのことだろうと思われた。
 趙石に頼まれていたデータをプリントアウトしたものを渡してやり、引き替えのようにして翌日の親善対局のレジュメを受け取った。
 親善訪問団は全部で五人。うち、女性が一人であることは趙石の話通りだった。
 五人の内、段位のついていないのは一人だけ、それが「伊角慎一郎」だった。
 日本では中国同様漢字が使用されるが、国訓がある。日本人の名前は字面からは容易に想像出来ないことは、楊海にはわかっていたが、ほかに「イスミ」と読めそうな者はいない。緒方からリークされた情報が確かだとすると、彼が自分の調査対象に間違いないようだった。
 組まれている対局は、午前に一回、午後に二回の計三回である。
 釣り合いを考えてのことなのか、大体は段位の隔たりの少ない組み合わせになっているようだった。一つ一つの対局を確認するように目を通していた楊海だったが、午前の対局の一番下の行に、趙石と伊角の名前を見つけた。
 ふうん、と、思いながら、楊海はちらりと趙石に目をやった。
 趙石はまだローティーンだが、勉強熱心であり、棋院内のリーグ戦でもまずまずの成績を上げている。このような国際交流のメンバーとして選ばれるというのも、彼が次代を担うべき一人として認識されているからだろう。体格や容貌は一つ年下の楽平とそれ程変わらないが、その中身は外見ほど幼くはない。
 まだアマチュアの伊角にそれなりの力があるのであれば、低段の趙石ともいい勝負になるはずだ。こっそり様子を見させてもらういいチャンスだと思った。
『どうかした?』
 楊海からもらったデータに目を通していた趙石は、楊海の視線に気付き、きょとんとした顔で見返してきた。
『いや、なんでもない。……そんなもんでいいだろう?』
『うん。ありがとう』
 趙石は、その後楊海と一局打って帰っていった。
 楊海はその夜、緒方に親善訪問団が来た旨を報告するメールを打っておいた。


 翌日、楊海が階下へ降りたのは、結局昼休み直前だった。
 寝坊をしたのである。
 「使用中」の張り紙を一応は尊重して、対局室のドアをそっと開ける。
 手前に趙石のものらしい後ろ姿が見えた。と、いうことは、その向かい側に座っているのが伊角の筈である。彼は目星を付け、部屋に足を踏み入れようとした。すると趙石が席を立ち、こちらに向かって歩いてきた。楊海は慌てて身を退き、ドアの陰に隠れた。
『楊海さん?』
 部屋から出てきた趙石は、きょとんとした顔でドアの側に立つ彼を見上げてきた。楊海は口の前に指を一本立てて見せた。
『おわっちまったのか』
『うん』
 楊海が小声で訊いたからなのだろう。趙石も小声で答えてきた。
 二人はその場を離れた。
『どうだったんだ』
『勝ったよ』
 趙石はけろりとして答えていた。
 楊海は即座に彼の腕を引いて訓練室へ入り、空いている席に腰を下ろした。
『なに?どうしたの?』
『ちょっと並べてみろ』
『なんで?』
『いいから』
 趙石は訝しげに彼を見返し、それでも楊海の言うとおりに対局の再現を始めた。
 なかなかいい勝負にはなっていた。
 伊角はわりに攻め気の強い打ち手らしかった。しかし、その気持ちが空回りしているのか、趙石に上手くかわされている。趙石はもともと重箱の隅をつつくようなところがあって、しかも見つけた穴は容赦なく叩く性質なのだが、この時にも伊角の意図は見透かされていたようだった。
 しかし、趙石もまだ未熟であることに変わりはない。伊角にそれなりのセンスがあるなら見つけられる穴は幾つもあった。
 楊海は、趙石にその穴を一つ一つ指摘し、指導をしてやりながら、緒方への報告の言葉を考え始めていた。
 伊角にはセンスがないわけではない。しかし一局見ただけでは、その迂闊さや視野の狭さが元からの欠点なのかどうかよく解らない。
『僕、なめられたのかな』
 楊海はちらりと目を上げた。
『なんでだ?』
『なんとなく』
『そんな感じだったのか?』
 趙石は首を捻りながら、『すごく悔しそうにしてたみたいだから』と答えていた。
 趙石は十才になるかならないかの時期にプロになり、すぐに中国棋院に住まうことになった。中国は日本に比べると入段年齢が低いので、趙石のような者も珍しくはないのだが、何も知らない異国人であれば、「こんな子ども」と考えても仕方がないかも知れなかった。
『そりゃ、向こうの勝手だからな。油断する方が悪い。気にすんな』
 楊海が『な?』と言うと、趙石は、
『気にしてないよ。いつものことだから』
 と、微笑していた。


 午後からの対局についても、楊海はそれとなく様子を伺ってみたが、どの対局でも伊角は精彩を欠いていた。勝ち星を挙げた対局でも沈んだ表情をしていることから、本調子ではないのかと思いもしたが、気持ちの切り替えが上手く出来るかどうかも棋士としては大切なことである。
 結果として、楊海は伊角に対する評価を確定できなかった。「悪くない」「力がないわけではない」という以上の感想を持てなかったのである。しかし、それを正直に緒方に報告して良いものかどうか迷っていた。自分に判断を任せたからには、緒方は緒方なりに期待するものがあったからだろう。緒方の期待するような報告が出来るほど、自分は伊角のことを探れていないようにも思われる。緒方とは気が合うわけではないが、楊海は棋士としての緒方には一応一目置いているのである。
 予定表によれば、親善訪問団は明日帰国をするようだった。
 もう少し時間があれば、もしくは直接接触の機会があれば、と、思いながら、楊海は報告の言葉を探し始めた。


 「イスミが一人で残ることになった」という話を楊海が聞いたのは、その翌日の昼食の時だった。そして遠目に李老師とともにいる伊角の姿を確認した。
 線の細そうな印象のあったイスミが一人で残る、と聞いて、楊海は驚き、また、感心もした。案外骨がありそうじゃねぇか、と、思った。
 それじゃあ、もう少し追っかけてみるか。
 そう思いついた彼は、書きかけていた緒方への報告メールを削除してしまった。