key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・9』

 十段戦は第一局を塔矢行洋がとり、第二局を緒方がとった。続く第三局は対局を目前にして塔矢行洋が倒れ、行洋の不戦敗となった。
 心臓の発作で行洋が倒れた、というニュースが、会場となっていた長野のホテルにいた緒方の元へ届いたとき、彼の中でそれまで維持されていた緊張感が一気に無くなり、ぽっかりと穴の空いたようになってしまった。形式的なレセプションをこなし、もう既に決まっている行洋の不戦敗を確実にするためだけに、碁盤の前に座しているとき、緒方は突然のように、桜野と交わした約束のことを思い出した。
 東京に戻った彼は、その足でとりあえず師の見舞いに訪れ、無事を確認してから帰宅をした。
 中国のガイドブックは本棚の隅に置いてあった。一応奥付を確認し、使えないほど古いものではないことを確認すると、彼は桜野に電話を入れた。
 気晴らしも兼ねて食事に誘ってみると、桜野は「嬉しい」と言いながら「今日は駄目だ」と、残念そうに話していた。
「明日でもいいなら、是非ご馳走になりたいです」
 そう言う口調も何処か暗い。桜野には珍しいことだった。
「それじゃあ、明日でいいよ」
 と、言った後で、緒方は、「何かあったのか」と、尋ねてみた。
「実は、その、中国行きのことで、今晩会議を持つことになったんです」
「なぜ」
「成澤先生が、今朝ギックリ腰になってしまったそうなんです。初めてではないんですけど、今回はちょっと症状が酷いようで、最悪の場合は入院することになるかも知れないというお話で……」
 緒方は内心「あちこちで随分病気が多いな」と思い、苦笑しながら、桜野の話を聞いていた。
「成澤先生が中国へ行かれるのは無理そうなので、その代理の団長を誰にするかというのと、欠員の分をどうするかと言うことで、先生を交えて話し合いをすることになったんです」
 緒方はその話に「ふうん」と相槌を打ったあとで、
「成澤先生には、くれぐれもお大事に、と、お伝えしておいてくれないか」
 と、言い、電話を切った。
 翌日は塔矢行洋を見舞い、コンピューターのセットアップをしてから桜野との待ち合わせ場所へ出向いた。
「緒方先生も大変でしたね」
 待ち合わせ場所にやって来た桜野は、一息ついたあとでそう話し出した。
「なにがだ」
「塔矢先生が倒れられたって聞きましたけど……」
「ああ、そのことか。……うん。大変だった」
「塔矢先生のお加減はいかがなんですか?」
「第四局には障りがないという話だし……、実際毎日見舞っているが、今は落ち着いているので、先生も退屈しているようだ」
「あら、そうなんですか」
 ウェイターが注文を取りに来た。二人は同じコースとワインを一本頼んだ。
「ところでそっちはどうだったんだ?」
「成澤先生は相変わらずで……。代理の団長は村田くん……村田四段が務めることになりました」
「欠員の方は」
 緒方は煙草を取り出し、火をつけた。
「成澤先生のご推薦で、退会者が参加することになりました」
「退会者が?」
 緒方は驚いた。
「退会したものは、もう九星会には関係ないだろう」
「ええ、そうなんですけど。成澤先生が強く推されていて、私達も彼なら仕方がないと納得したんです」
 桜野の話を聞いて、緒方は苦笑した。
「伊角くんと言うんですけど、……去年の秋に自己都合と言うことで退会したんですが、それまでは成澤先生もものすごく可愛がってらして……。実際、私よりも強いんですから、なんだってプロ試験に合格できなかったのか、よく解らないくらいなんですけど」
「お前より強いのか」
「ええ」
「どのくらい?」
 桜野はしばらく考え込んでいた。
「十回対局して六、七回は確実に負けていると思います」
「そりゃ、お前、負けすぎだろう」
「でも本当に強いんですってば」
「伊角って言うのは、名前を聞いたことがあるよ。成澤先生の秘蔵っ子だって?」
「ええ、本当にそうでした」
「院生師範の篠田先生も随分褒めていた」
「そうなんですか」
「その「伊角くん」は、プロを諦めたんじゃなかったのか」
「退会してからいろいろ考えてはいたようなんですけど、結局は諦めきれなかったみたいなんですね。この春に高校を卒業したんですけど、進学もしないで、プロ試験の準備をするつもりみたいです。成澤先生がもう彼にコンタクトとってらして、本人を口説いたようなので、私達としては、反対をするようなことでもないし、それはすんなり話が決まりました」
「それじゃあ、話し合いはすぐに終わったのか?」
「そうなんです。もう。あんまりあっけなかったので、先生に電話かけちゃおうかって思いました」
 桜野は笑っていた。
 食事をしながら、緒方も笑いたくなった。
 まるで何時までも忘れるな、とでも言いたげに、折に触れ方々から伊角の話が入ってくるのはどうしたわけだろう。その度に実態がつかめず、本人の姿さえ、一年ほど前にちらりと見かけたきりだ。昨年の秋に「院生も九星会もやめた」と聞いたときには、篠田が何と言ったところで、そういう手合いはもう駄目に決まっていると思いこんでいた緒方は、何時か言われたとおりの本人の復活ぶりにも、思わず笑いたくなった。
「それで、中国には何時行くって?」
「五月の二日か三日にこちらを立つ予定です」
 桜野にガイドブックを手渡し、彼女の好きそうな店の話をひとしきりしてやって、その日は別れた。
 伊角が今年プロ試験に合格できる、という見込みはない。そうなればまた実態のつかめないままで時間ばかりが過ぎてゆくことになる。もう既に院生もやめてしまったと言うことは、対局を見ることもかなわないと言うことだ。
 緒方はしばらく考え、中国棋院の知り合いに連絡を取ることにした。
 伊角の様子を伺ってもらい、彼の力を見る機会があるなら、見極めをしてもらおうと思ったのである。その上で伊角に接近をするのでも遅くはないだろうと思った。その頃の彼は初のタイトル奪取に向けて意識を集中しなければならない時期であったし、タイトルを取れたら取れたで、それをきっかけにして、自らの碁界での地位を確かなものにしていかなければならなかったのだ。