key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

指輪・2

 同業者だから、仕事に行けばどこで顔を合わせてもおかしくはないのだが、案外あの人と一緒になる機会はない。その日も仕事を終えて部屋を出たところで偶然のように顔を合わせたのだった。
 あの人は煙草を吸っていた。
「終わったんですか?」
 と、尋ねると、
「もうすぐ終わる」
 と、答えた。
「お前は」
「今終わりました」
 彼は煙草を手にしたままで頬杖を付き、じっと俺を見つめていたが、やがて「もう少し待てるか?」と尋ねてきた。
 俺は何も答えなかった。
「下で待っていてくれ」
 そう言うと、彼は煙草をもみ消して、もといた部屋に戻っていった。
 オレは彼の背中が見えなくなってからもしばらくその場で佇んでいたが、やがて階段に足を向けた。
 腹は立たない。いつもの事だ。付き合ってもらっているような関係だし、あの人よりはオレの方が遙かにしがらみは少ないのだ。
 一階に下りたところで年下の友人達にあった。オレよりも早くに仕事を終えて、下に降りていたはずなのに、まだ残っていたのか。
「今終わり?」
「うん」
「今飲みに行く相談してたんだけど、一緒に行く?」
 考慮するふりをして少し間をおき、「ごめん」といかにも申し訳なさそうに言った。
「これからちょっと。……悪いけど」
 意味ありげに目を合わせると、二人は「それじゃあ、また」と言って立ち去った。酒の肴にされてしまうだろうが、仕方がない。変にしつこくされてあの人と鉢合わせをされるよりはマシだ。今度何か訊かれたら、また適当に答えておけばいいだけだから。
 一時間ほどして彼はエレベーターから姿を現した。
 ちらりと目を合わせ、歩き続ける彼の横に並んで建物を出た。
「どうでした?」
 と尋ねると、
「勝った」
 とだけ返された。
 車に乗り込んでからは業界の話を少しした。
 彼の車に乗ることには余り慣れていないので、少し緊張する。いつもは時間と場所を打ち合わせて会い、用が済んだら帰ることが多いからだ。彼も自分の車がいろいろな意味で目立つことを自覚しているからか、家まで乗り付けてくることはない。送ってもらう時でも、大抵は、最寄りの駅前か、コンビニエンスストアの近くでおろされる。
 話をしているうちに、車は高速に乗り、いくつかのインターチェンジを通過して、やがて降りた。連れて行かれた先は、あるホテルの最上階ちかくにあるレストランだった。
「メシはまだなんだろう?」
「はい」
 適当なコースを選んで二人分を注文した。
 彼から誘われるのは珍しい。相変わらず業界の話を続けながら、どんな用があるのだろうと思っていた。
 食事を終えたあとは、そのまま他の階にある、ある部屋に連れて行かれた。何時の間に部屋を取っていたのだろう。野暮な所は見せたがらない人だから、あまり詮索はしない方がいいのだが。
 部屋の中ではいつも通りだった。
 先にシャワーを浴びるように言われ、オレと入れ替わりに彼がバスルームに入る。オレの髪が半ば乾いた頃に彼が出てきた。
 オレが彼の眼鏡に手をかけ、彼はオレに唇を寄せる。互いの舌を追いかけ合うようにしながら、バスローブの紐を引いて、身体を寄せ合う。
 もう何度こうして身体を重ねているだろう。最初からあまり頻繁に会うことは期待していなかったけれど、近頃は時々彼の体温が懐かしく感じることがある。その程度には慣れた。この人の身体しか知らないけれど、今のところそれで別に不満はない。この人から終わりを告げられる日まで、きっとこの関係は続くのだ。
「あの指輪、どうした」
 不意にそう訊かれた。
「今日は持ってないですけど……ちゃんと家においてあります」
「そうか」
 返して欲しいのだろうかと思い、彼の顔をしばらく見つめていたが、特に落胆している様子も見えなかった。
「何か言われました?」
「いや」
 そう訊いても特に表情は変わらない。
「そういうことを詮索したりはしないんだ」
 いつか遠目に見た時の、沙織さんの顔を思い出す。よくわきまえた風の、品の良い美しいひとだった。
 彼と目が合い、手招きをされた。だるい身体を少しだけ起こし、身を寄せると、小さな筺を渡された。
 黒いビロード張りの小さな蓋を開けると、中には指輪が一つ入っていた。
 先日彼に強請ったものと、とてもよく似ていた。
 ついまじまじと見つめ、内側まで覗いてみた。中には同じように「StoS」と彫り込まれてある。
 代替品か、と、思った。
 結局、先日の指輪とこれを交換してくれと言うことなのだろう。
 そう考えると、自分でも意外なほど落胆しているのがわかった。
 溜息をつきながら、オレは蓋を閉めた。
「いつ持って来ます?一週間後でいいですか?オレ、来週は市ヶ谷じゃないんですけど……」
 話をしながら取り乱しそうになっているのが、自分でもおかしいと思う。どうしてこのくらいのことで、こんなに動揺しているのだろう。
「何を言っているんだ」
「これと交換に、あれを返して欲しいって、そう言うことでしょう。違うんですか」
「いや、別にそんなつもりじゃない」
 彼の真意が読めない。オレは一瞬言葉を失った。
「だって、これは……」
「よく見たか」
「見ましたよ。StoSって、同じように……」
「日付は?」
 そう言えばそこまでは見ていなかった、と、思い、オレは再び重い蓋を上げた。そして、もう一度内側を覗いてみる。そこには言われたとおり、イニシャルと一緒に日付が彫られていた。
 ただし、この間の指輪とは違う日付が。
 確信は持てなかったが、その日付には何となく覚えがあった。
 いや、おそらくそうなのだろう。それは、オレと彼との間に約束が取り交わされた日の日付なのだ。
「大変だった。何年も前のスケジュールを引っ張り出して。それでも大切な棋戦の入っていた日だったから、なんとか思い出せた」
 彼は一度そこで言葉を切り、
「間違っていないだろう?」
 と、尋ねてきた。
 なんてことだろう。当の本人であるオレでさえ、よほどせっぱ詰まっていたのか、あの日の日付なんて、はっきりとは記憶していないのに、この人はそれを律儀に調べ上げてくれていたのか。
「よく解らないんですけど、こういうものって、一つから買えるものなんですか」
「いや、普通は二つだな」
「……じゃあまさか……」
「こっちは、お前のところに置いておいてくれよ」
 彼はそう言うと、オレの手にあるのと、同じ筺を取り出した。
 彼はオレの手から指輪を取り上げると、先日と同じように、手を恭しく持ち上げ、指輪を嵌める。それは前回同様、オレの指にすんなりとおさまった。
「どうしてサイズわかったんですか」
「オレの指輪が丁度良かったようだったから」
 そう言いながら、指輪を弄り、サイズを確かめていた。
「これはしておいた方がいいだろう」
「なぜ」
「いい魔除けになるだろうから」
「魔除け?」
「これをしているだけで、何時結婚するんですか、とか、恋人はいるんですか、とか、まあ、そういう面倒な言葉から永久に逃れることができるのさ。おかしな噂の立つことも無くなる」
 オレはそう言われて、自分の手元に目を落とした。
「魔法の指輪だ」
 彼はそう付け加え、にんまりしていた。
「……式のことを訊かれたらどうしましょう」
「入籍だけで済ませたと言えばいいさ」
「子供のことは」
「身体が良くないとでも言っておけよ」
「相手を見せろと言われたら……」
「外に出したくないとか、内気で外に出たがらないとか、適当に答えておけ」
 そこでつい笑ってしまった。
 本当に悪知恵に長けている。感心してしまった。
「これはお前だけのものだから」
 その言葉に少し胸が熱くなった。
 この人とつきあい始めたのは、オレの身勝手からだった。彼は彼で相当に我が儘な人だと思うのに、何故か、オレの言うことは通してくれることが多い。どうしてこんなに大切にしてくれるのか、わからない。そして思うのだ。オレが、この人ならおそらくオレの希望を受け入れてくれるだろうと思った、あの時の直感に間違いはなかったと。
「それにしても、おかしいと思われなかったですか」
「何がだ」
「同じサイズの指輪を二つなんて」
「”随分逞しい方ですね”とは言われたな」
「なんて答えたんですか」
「そこが好きなんだと言っておいた」
 オレはそこでもう一度笑った。
「おそらくもう二度と行かない店だ。何を言われてもかまわないさ」
「あの……」
「何だ」
「今日、帰りますか?」
 彼は訝しげにしていた。
「泊まって行っちゃ駄目ですか」
「かまわないが」
「一緒に」
 そうしておずおずと、彼の身体に手を回す。
 彼はすんなりと承諾をしてくれた。
 今日だけは、この人と一緒にいたい。明日の朝まで。
 指を少し曲げると、金属が当たる。それにはまだかなり違和感があるけれど、おそらく、その内に慣れてしまうのだろう。オレがこの人にいつか馴染んでしまったように。