key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『不惑』(仮)

 その朝、緒方は珍しく寝坊をした。
 前日は遠方の温泉地でイベントがあった。前泊した前々日には地元の後援者から一席設けられ、イベント後には、久々に顔を合わせた仲間内で飲み歩くことになった。年齢を重ねてきたからか、彼もこのところはよく宿酔いを起こす。その日の朝に目覚めたときにもまだ軽く酔いが残っている気がして、「喉が渇いた」と思いながら、まるで起き上がる気にはなれない。ごろごろと寝返りを打ちながらうつらうつらとしているうちに二度寝をしてしまっていた。
 次に起きたのは十時を過ぎた頃だ。チャイムの音に気づいて、渋々寝床を抜け出した。
 不機嫌をそのままにインターフォンに出てみると、馴染みのペットショップの店員だった。
「お届け物にまいりました」
 と、言われて、緒方は一瞬耳を疑った。
 確かその店には一週間ほど前に顔を出していたが、その際になにか配送してもらうようなものを注文した記憶はなかったからだ。
 鈍く痛む頭で考えつつ確認してみると、品物は確かにその日配送することになっているとのことだった。ものは何かと尋ねると、熱帯魚と、それを入れる水槽だということだった。支払いは既に済んでいて、配送だけでなくセッティングするところまで依頼されているとのことだった。一応品種も尋ねてみると、彼が最近興味を持っている小型の魚だった。
 もしかすると以前頼んで、それきり忘れていたのかも知れない。なにしろこの数ヶ月はなにかに忙しかった。
 支払いも済ませてあると言うのだから、おそらく依頼してあったのだろう。とにかく彼らをそのまま黙って外に待たせて置くわけにもいかない。彼は簡単に身支度をして、業者を迎え入れた。
 何度も家に呼んだことのある業者だ。彼らは緒方に水槽の置き場所を確認すると、あとはてきぱきと作業を進め、水槽の環境を整え終えると帰って行った。
 新しい水槽の中をちらちらと泳ぎ回る魚たちは、確かに以前店先で見かけたものだった。最近になって繁殖がすすんできたもので、まだあまり出回っていない。それが思いがけず手に入ったのは、うれしかった。
 セッティングの終わるのを待っているうちに目も醒めてきたし、魚の様子に心もだいぶん和んだ。
 彼はとりあえず宿酔いを抜くためにコーヒーを入れようと腰を上げた。
 その日から数日の間は、短い休暇の予定だった。
 少し甘くしたコーヒーを手に新しい水槽の前に戻った彼は、休暇をどうやって過ごそうかを考え始めた。


 午後になって、もう一度チャイムが鳴った。
 新しい魚にただ見惚れるばかりの休日を過ごしていた緒方は、至福の時間を中断するチャイムについ眉をひそめた。
 やって来たのは伊角だった。
 しばらくの間、仕事で顔を合わせても二言三言言葉を交わす程度だったので、今日は電話して呼び出してやろうとか考えていたところだった。そこに当の本人がやってきたので、緒方はにわかに驚いた。
 伊角はリビングへ入ってくると、新しい水槽に歩み寄り、「あ、届いたんですね」と言った。
「気に入りました?」
「……お前が頼んだのか?」
 緒方が尋ねた。
「これ、欲しがってませんでした?」
「ああ。まあ……」
 緒方は決まり悪げに返答した。
 自分と違って熱帯魚にさほど興味のない伊角の前で、そんなに物欲しそうにしていたことがあったのかと思ったのである。
 伊角はもう一度水槽に目を落とすと、満足げに微笑み、一度床に置いた荷物を持って、キッチンへ向かった。
「そんなにたくさん、何を持ってきたんだ?」
「いろいろ、食べるものとか」
「食べるもの?」
「今日は先生外に出たくないだろうと思って」
 根拠ありげな言葉に緒方がぽかんとしていると、伊角は「昨日とか一昨日とか、イベントだったから随分飲んできたんでしょう?」と、言いながら、冷蔵庫の扉を閉めた。
「まるで見てきたように言うな」
 緒方が言うと、伊角は、
「だって、あのイベントに出かけたらいつもそうじゃないですか」
 と、笑った。
「前に行った店で、テイクアウトさせてくれるところがあったのを思いだしたんで、そこの買ってきました。オレの作ったものよりは御馳走だと思うんで、今回は我慢してください」
 伊角はスポーツドリンクのペットボトルを緒方に差し出してきた。
「今回?」
 ペットボトルを受け取り、緒方が尋ねると、今度は伊角の方がぽかんとした。
「先生、今日何日だかわかってますか」
「何日って」
 緒方はカレンダーに目を向けた。
「1月17日ですよ」
 緒方が見つけるよりも早く、伊角が答えた。
 伊角は持参した袋から最後にシャンパンを取り出した。
「もしかしたら、まだお酒飲みたくないかも知れないですけど、一応用意しました」
 伊角は瓶を持ち上げて、「どうしますか?」と尋ねてきた。
 緒方は溜息をついたあと、「冷やしといてくれ」と言って、決まり悪さに頭を掻いた。


「お前が熱帯魚に興味あるとは思わなかった」
「先生に用事頼まれて出入りしてるうちに、店の人とも親しくなったんですよ。あれも、先生が前に欲しがってたみたいだって聞いたんで」
 頭にバスタオルをかぶってがしがしと拭いていた伊角が、顔を出して、「あれ、違いました?」と尋ねてきた。
「……間違ってはいないが」
「が?」
「お前が頼んだとは思わなかった」
 伊角は嬉しそうに「そうですか」と言い、ベッドに腰を下ろしてきた。
「今日は呼ぼうかと思っていたら都合良く来るし」
 伊角は目を瞬かせて緒方の話を聞いている。
「二日酔いで家にいることまでお見通しで」
 緒方もまさかスポーツドリンクを買い忘れていることまで見透かされているとは思わなかったが。
「和食はそろそろ飽きた頃かとも思ってたんですけど」
「うん。まあ、そうだ」
 年末から年始、先日のイベントまで和食が続いて、確かにそろそろ違うものが食いたいと思っていた。
「あ、先生、あれ、あの魚、何匹いるか聞きました?」
「いや」
「40匹」
 伊角は得意げに微笑んでいる。
「40歳だから」
 コメントに困り、緒方は煙草を手にした。
「……お前は気が利くようになったな」
 多少の皮肉も込めて言ってはみた。
 が、
「もう十年も付き合ってれば、そのくらいはわかります」
 と、いう伊角にはまるでその意味が通じていないようだ。
 「そんな風に見透かされるのは面白くないんだよ」という余計な言葉は胸のうちに収めて、緒方は伊角の頭をとりあえずなでてやった。

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『魚』の先生は、だいたいもう40歳だと思って。
いつまでもこんな人達だと思っています。
と、いうことで。