key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

それはちょいとちがうのではないか

テキスト論がちやほやとされていた頃の話だったかと思う。

イリュージョン (集英社文庫)

イリュージョン (集英社文庫)

↑の本についての話になって、その時その場にいたちょっと年下の彼女が、作者と文章を結びつける必要はないという話をしてから、「だから外国の小説でも別に原本に当たる必要はない」とわりに得意げに話をしていて、あまり得意げだったので「ああそうですか」と思って聞いていたのだけど、何度何年考えても、その意見には承伏しかねるのだった。
作者の人柄や生活と創作を絶対に結びつける必要はないという考えがわからないわけではないし、それはそれで文章の一つの読み方だと思うのだが、(というか、それまでがやはり、作者の生活や人柄と文章を結びつけ過ぎだったのだろうと思う。)しかしそうすることによって文章の読み方が一つにまとまるかというと、そんなわけはないのである。
文章としてまとめられた一つの作品を読む人の視線は一様ではないからだ。
その文章から拾い上げられたいくつかの事実があるとして、その事実を取捨選択するのは、あくまで個人である。
翻訳だって考え方は同じではないのか。
『イリュージョン』はリチャード・バックの作品だが、翻訳された上の文庫本は村上龍という濾過装置を通ってきたものだ。おそらく違う人が翻訳をしたら、まったくちがう味わいの作品になるだろうということは容易に想像できる。村上龍という濾過装置を通ったものを味わうだけで、リチャード・バックを語っていいものだろうか。私はそれはやはり違うのではないかと思う。リチャード・バックを語るためには、やはりリチャード・バックの言葉にあたる必要があるのではないか。
野崎訳のライ麦と春樹訳のライ麦を同じと言うか?スラングだらけのサリンジャーの文章に意味は無いのか?
それはあまりにも乱暴な仕打ちではないか。
と、思うんだよね。