それはちょいとちがうのではないか
テキスト論がちやほやとされていた頃の話だったかと思う。
- 作者: リチャード・バック,Richard Bach,村上龍
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1981/03/20
- メディア: 文庫
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作者の人柄や生活と創作を絶対に結びつける必要はないという考えがわからないわけではないし、それはそれで文章の一つの読み方だと思うのだが、(というか、それまでがやはり、作者の生活や人柄と文章を結びつけ過ぎだったのだろうと思う。)しかしそうすることによって文章の読み方が一つにまとまるかというと、そんなわけはないのである。
文章としてまとめられた一つの作品を読む人の視線は一様ではないからだ。
その文章から拾い上げられたいくつかの事実があるとして、その事実を取捨選択するのは、あくまで個人である。
翻訳だって考え方は同じではないのか。
『イリュージョン』はリチャード・バックの作品だが、翻訳された上の文庫本は村上龍という濾過装置を通ってきたものだ。おそらく違う人が翻訳をしたら、まったくちがう味わいの作品になるだろうということは容易に想像できる。村上龍という濾過装置を通ったものを味わうだけで、リチャード・バックを語っていいものだろうか。私はそれはやはり違うのではないかと思う。リチャード・バックを語るためには、やはりリチャード・バックの言葉にあたる必要があるのではないか。
野崎訳のライ麦と春樹訳のライ麦を同じと言うか?スラングだらけのサリンジャーの文章に意味は無いのか?
それはあまりにも乱暴な仕打ちではないか。
と、思うんだよね。