key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『四月の魚』3


 院生研修の時に、和谷はよく自分の母親のことを「ウザい」と言っていた。
「そんな風に言うもんじゃないぞ」
 伊角が苦笑しながらいさめると、和谷は僅かに口をとがらせて黙る。そう言うとき彼は伊角に母親が居ないことを思い出して一人気まずく感じていたようだった。それでだまりはするが、その顔には、「でもウザいのはウザい」と書いてあった。伊角はそれをまた複雑な思いで見ていた。
「オレプロになったら、ぜってぇ家出る」
 時々そんな風にも漏らしていた和谷は、プロ棋士になるにあたって、本当に家を出た。伊角が中国に行っている間に引っ越したので、伊角は彼が一人暮らしを始めたと言うことを帰国後に知った。和谷の家に電話をした際に、和谷の母親から「伊角君。義高もううちは出てるから、今度からあの子の携帯に電話した方がいいわよ」と告げられたのだ。
 待ち合わせ場所に現れた和谷に、「どうして家をでることを教えてくれなかったのか」と尋ねると、彼は「そもそも音沙汰なくなってたの、そっちじゃん」と逆に責められた。
 家を出はしたものの、和谷は生活の主たる部分を実家に依存して暮らしていた。最近はそうでもないようだが、家を出たての頃には家賃も負担してもらっていたらしい。その頃口癖のように「金ねぇし」と言っていた和谷の気持ちを、伊角は初段になってからいくらか理解した。
 最近、和谷は「金ねぇ」と言わなくなった。母親のことも「ウザい」とは言わなくなった。相変わらず経済的に豊かでないことは知っていたし、母親との関係が劇的に変化したと言うこともないと思われた。ただ、現実に親と距離を置いて、以前よりは息苦しさがなくなったのだろう。伊角にはそんな風に思われていた。
 家を出ようかと思いついた週末、伊角は研究会のために和谷の所を訪れた。彼らの仲間の中で実家から離れて暮らしているのは、冴木と和谷くらいなものだった。その日は冴木が休んでいたので、伊角は何となく和谷のことを意識してみていた。
 いつになくじろじろと見られていることに気付いたのだろう。和谷は「伊角さん、どうしたの?」と、怪訝そうに尋ねてきた。
「オレなんか変?」
 「和谷はいっつも変……」と余計な茶々を入れる奈瀬を、彼は軽く小突いた。
「いや、別に」
「何かついてる?」
「いや」
「なんかさ、今日オレのことずっと見てない?」
 伊角は笑ってごまかそうとした。
「え、ちょっと、伊角君、それやば……え〜?」
 妙な誤解をしたらしい奈瀬が、一人で顔を赤くしている。本田は顔を引きつらせて苦笑していた。それを見て、伊角もなにも言えなくなり、ただじわじわと顔を赤くした。
「馬鹿。奈瀬。うるせぇ」
「あ、ごめ〜ん。あたしたち邪魔だからもう帰るね」
 反論してきた和谷に、ふふふと笑いながら腰を上げた奈瀬に促され、本田も帰っていった。
 部屋に二人きりになると、和谷は伊角の方を振り返った。
「俺になんか話しあるんでしょ?」
改めて言われると言いにくて、伊角は一瞬躊躇してしまった。
「なに?」
「あの、……さ。和谷、一人暮らしってどう?」
「はぁ?」
 あまりにも漠然とした問いかけに、和谷は呆れた声を出していた。
「大変?」
「そりゃ、大変だけど……。伊角さん、家出るの?」
「いや、まだそうはっきり決めたわけじゃないんだけど、……」
 伊角は何故か照れ笑いを浮かべた。
「健とか反対するんじゃないの?知ってんの?そのこと」
 健とは伊角の末弟の健三郎のことだ。和谷は彼とは付き合いが古いので、弟たちのこともよく知っていた。
「健には話してないんだけど、雄はちょっと前から家出たらって……」
「で、伊角さん自身はどう思ってんの?」
「……前向きに検討しようかと」
「ふうん」
 伊角の意思を確認するように、和谷はじろじろと彼を見ていた。
「完全に自活は難しいと思うよ。オレもまだいろいろ家に頼ってること多いし。伊角さんどのくらい貯め込んでんのか知らないけど、しばらくは貯金食いつぶすことになるんじゃない?」
「そっか……」
 和谷の教えてくれたその部屋の家賃は思っていたよりも高値だった。築年数はかさんでいるし、駅からも離れているが、土地自体がわりに便のいい所であるためらしい。「実家に頼る」ことを優先するとやむを得ない選択であったらしかった。
「もうちょっと外に出ればいくらか部屋の条件は良くなるかも知れないけど、家も棋院も遠くなるだろうから……」
 和谷は言葉を濁した。
「オレ自分でここ決められたわけじゃないからさ、悪いけどあんま相談に乗れないと思う」
「……そうか」
「それこそ、緒方先生にでも聞いた方がいいんじゃねぇ?」
 伊角はその言葉に愛想笑いだけを返した。

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奈瀬……。