key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・23』

「中国行くのって、どのくらいかかんの?」
 和谷の問いかけに伊角は窓の外を眺めながら「そうだな」と答えた。
「ちょ、伊角さん?」
 体を揺さぶられて、伊角ははっと気付いた。
 よく利用するファーストフード店の店内にいることを、伊角はそこで改めて自覚した。
 何度か目を瞬かせて見返すと、和谷は苦笑している。
「聞いてなかっただろ。オレの話」
「あ?き、聞いてたよ」
「じゃ、なんて言ったか覚えてる?」
「え、と……」
 和谷の視線が冷たかった。
「……ごめん」
 一言で言えば、その日の伊角は浮き足立っていた。
 電車で行ける距離の所に楊海がいると意識していたからか、前日からなんとなく緊張をして落ち着かなかったのだが、いよいよ和谷と一緒に電車に乗り込んでからは、徐々に彼のいる場所に近づいていると考えただけで、頭に血がのぼってくるようだった。頭のなかは、楊海との思い出や今日会ってからのことなどが切れ切れに思い浮かぶばかりで、いっこうに落ち着いてくれない。もちろん、そんな風に整理のつかない思考に翻弄されてぼんやり前を見るばかりの伊角のことを、和谷が隣で呆れて見ていたことなど全く気付いていない。
 会う前からそんな調子だったので、実際に楊海が彼の目前に姿を現した際には、頭に血が上りきっていた。
 楊海は団長としての仕事があり、伊角達といくらかの言葉を交わしただけで、すぐにその場を離れてしまったのだが、久しぶりに感じた楊海の存在感を伊角はただ享受するばかりだった。中国棋院で顔なじみになった棋士たちや、その後に通りかかったヒカル達とも言葉を交わしたのだが、肝心の話の内容はあまり記憶にはない。
 そのうちレセプションの始まる時間になり、二人は帰途についたが、伊角は帰途でのこともあまり記憶にはない。だからついさっき、自分がファーストフード店にいることに気付いて、俄に驚いた。
「あのね、中国行くのに、どのくらいかかんの?って、訊いたの」
 和谷はわざと伊角に言い聞かせるように話をした。
「え、四時間?」
 和谷は頭を抱えていた。
「時間じゃなくて、金。いくらぐらいかかんのって」
「さあ」
「伊角さぁん」
 和谷は身もだえしていた。
「中国行ってきたんだろ〜?」
「行ってきたけど」
「それでなんでわかんないわけ?」
「オレ親善だったから、九星会とかから旅費が出たんだよ。だからいくらかかったとか実際よく知らないんだ。自分で持って行ったのは小遣い程度で。帰りの飛行機は自分で取ったけど、向こうの金で払ったし、日本円で換算したらいくらぐらいだったかな……」
「わかった。もういい」
 和谷は呆れたように溜息をついていた。顔が熱くなった。
「……まあね、久しぶりに会うんだから、興奮もするだろうけど」
「……ごめん」
 伊角は重ねて謝罪をした。
「そうだ。アレ、渡したの?」
「え?」
「MD」
「あ?」
 伊角は記憶を辿ってみたが、やはり定かではなかった。それであわてて身の回りを見回してみると、彼の脇に、例の紙袋があった。背中に嫌な汗をかきつつ、伊角はそろそろと紙袋を持ち上げて見せた。
「あ〜あ……」
 伊角も流石に自分が情けなかった。
「どうすんの?それ」
「……どうしよう」
「明日とか持って行く?」
「でも明日からはもう棋戦だろ?隙ないよ」
「じゃあどうすんの?見送りも行けないんだろ?」
「うん……」
「もどろっか?」
 和谷の提案に、伊角は伏せていた目を上げた。
「これからか?」
「もうレセプション終わるんじゃねぇ?」
 和谷はそう言うと携帯電話で時間を確認していた。
「もどろ」
 早速席を立とうとした和谷に、伊角は、「オレ一人で行ってくる」と告げた。
「……大丈夫?」
「今度はちゃんとおいてくるよ」
 和谷は疑いの眼差しで彼を見ていた。
「本当に、ちゃんと渡してくるって」
「んじゃ、証拠写真取ってきて」
証拠写真?」
「伊角さんの携帯、カメラついてんだろ?」
「あ、うん」
「それで渡したところ撮って、オレにメールで送って」
「なんだってそこまで……」
 伊角が苦笑していると、和谷は、
「出がけも忘れて肝心の時にも忘れてきたんだから、もう伊角さん信用ならねぇじゃん」
 と言った。
 伊角は一言も返せず、ただ笑うしかなかった。