緒方は認証式の翌日に引っ越しをすることにしていた。
認証式は行洋と出かけた。行洋はその日棋院から表彰を受けることになっていたのである。新初段である緒方の方が説明を受ける分時間がかかったのだが、行洋は彼の用事が終わるのを待っていたようだった。二人は珍しく一緒に帰途についた。
緒方は少し前から意気の上がらない日が続いている。その日も晴れの日であるのになんとなく鬱々とした気分で、行き帰りの車の中でもぼんやりとしていた。
「緒方くん」
「はい」
緒方はそのままの姿勢で返事をした。
「荷物はもう片づいたのか」
「はい」
「明日は何時に出るんだね」
「業者が九時に来ることになっています」
「私は見送りをすることは出来ないんだが……、申し訳ないな」
行洋は明日から遠征に出ることになっていた。移動の関係で、出発は早朝の予定だった。緒方はもちろんそのことを承知して時間を決めたのである。行洋に見送られるなど、考えただけでたまらないように思われた。そして実際、この時にもたまらない気持ちになって、彼はしばらく返事が出来なかったのである。そのうちどんな言葉も間の抜けたものに感じられるほど時間がたってしまって、結局彼は口を噤むしかなくなってしまった。
二人とも無駄口はきかない方なので、二人でいても沈黙が続くことはよくあった。緒方も慣れているので、特に行洋といて苦になることはなかった。しかし、この時には二人の間の沈黙がひどく重苦しく感じられた。緒方はただひたすら車が早く到着してくれることを願っていた。
その日は緒方のいる最後の夜であると言うこともあって、夕食は特別に用意されていたが、彼は味気なく食事を終え、早々に離れに引き上げた。
いつもの稽古の時間に、緒方がいつもの部屋へ行ってみると、行洋は腕組みをして何事か考え込んでいたようだった。彼の前には碁盤が置かれていたが、その上は綺麗なままで、脇にある碁笥にも蓋がされていた。緒方は戸口に立ったまま、その様子を眺めていた。声をかけるのが憚られた。
行洋はやがて緒方の気配に気付いて顔を上げた。緒方は行洋の前に座り、頭を下げた。
いつも通り置き石をして対局を始めた。行洋が声を出すと、それで対局は終わりである。振り返りつつ助言を貰い、最後には「ありがとうございました」と緒方が頭を下げる。それで稽古は終わりだった。その日も同じような流れで稽古は進み、緒方は頭を下げて退室をしようと思っていた。
すると行洋の方が先に腰を上げた。
なにをするのかと思い、浮かしかけた腰を下ろして、緒方が待っていると、行洋は床の間から碁盤と碁笥を運んできた。
「確認のために出してしまったんだが」
碁盤も碁笥も新品だった。どちらも一見しただけで値段の類推される、質のいいものである。碁笥は蓋をしてあったが、中の石もかなり質の高いものであることは推し量られた。緒方の胸は自然高鳴った。
「これを持っていきなさい」
突然のことに動揺していて、緒方はすぐに返答をすることが出来なかった。それだけではない。身動き一つとることが出来なかった。彼の心臓だけが、この時激しく活動をしていた。
「持っていきなさい、と言うよりは、持っていって欲しい、と言うのが正しいかも知れない。君のはなむけになるのかどうかわからないが、これは私たちにはどうしても必要なものだから」
緒方は膝の上の拳を見つめていた。
「住まいは別になるが、君が私の弟子であることには変わりがない。研究会のあるなしに関わらず、いつでもうちに来て構わない。これまでのように、私の留守に君にいろいろと頼むこともあるかも知れない」
「はい」
「しばらくは食事も大変だろう。明子には言ってあるから、なるべくうちで済ませていくといい」
「ありがとうございます」
「学校はどうする」
「とりあえずは続けます」
「私があの学校に口をきいたと言うことを気にしているのなら、そういう気遣いはいらない。君が煩わしいと思ったら、いつでもやめてしまって構わない。対局は平日で、必ず休むことになるのだし」
「はい」
「……あの時、君はまだ親御さんのところにいたい時期だったろうに、よく一人でうちに来る気になってくれた」
突然の話題転換に、緒方はちらりと目を上げた。
緒方が来た当時を思い起こしているのだろう。緒方の目に、行洋は感慨深げに見えた。
「別に君を破門にするわけでもないのに、なんだか感傷的になってしまうな」
行洋は苦笑していた。
「幼かったのに、よく頑張ってくれたと思う。私には君に困らされた覚えがない。君がよくやっていたのにプロ入りがここまでのびてしまったのは、私の指導が上手くなかったからだろう。弟子を取るのは君が初めてで、いろいろと迷うこともあった。それでもようやっとここまで来てくれた。今日は自分のことよりも、君の認証の方がなんだか心に残ったような気がする」
上手く言葉が紡げない。緒方は黙って俯いていた。
「君と公式で対局するのを、楽しみにしているよ」
行洋の言葉はそれきりで終わった。
その言葉の余韻を味わうように、二人の間に沈黙が流れた。
緒方は、自分の心が徐々に感傷的になっていくのをどうにも止められずにいた。そしてそんな自分が嫌で仕方がない。
「悲しくも寂しくもない」「オレはこの家とこの人を切り捨てていくんだ」「もう誰にも縛られないし、誰の顔色もうかがわないでいいんじゃないか」「いつものように形だけ頭を下げればいいことだ」「これで最後なんだ」
自分にそう言い聞かせてはみるが、このあとに彼が発しなければならない「ありがとうございます」という言葉を思い浮かべただけで、涙が浮かびそうになる。礼を尽くさなければならない場面だとわかっているのに、言葉が喉のあたりでもやもやとたまっていくばかりだった。身のうちに満たされていく感傷は見て見ぬふりを出来る程度ではなくなっていた。もう頭を下げるしかなかった。
緒方は膝の上に揃えていた手を下ろした。
それでもすぐには言葉を口に出すことは出来なかった。乱れてしまいそうな心を落ち着かせるため、緒方は深呼吸をすると、深々と頭を下げた。
「これまでありがとうございました」
それだけを何とか言い切ると、緒方は軽く頭を下げ、その場を辞した。
息を詰めたままで離れに戻り、冷たい水を一口飲んだところで、彼はまた深呼吸をした。
それまでの緊張が一気に解けて、身体がバラバラになりそうだった。冷たい板の間に、彼はそのままぺたりと座り込んだ。
まだ胸が重苦しかった。
彼はしばらくの間その場に座り込んで放心していた。
「馬鹿」
不意に呟きが漏れた。
彼はその言葉を認識した瞬間、苦虫を噛み潰したような表情をして、立ち上がった。
いらだちを感じながら布団を敷き、乱暴に灯りを消すと、彼は布団を頭から被って寝てしまった。
馬鹿はオレだ、と、暗闇の中で考えていた。
もともと荷物も少なく、姉の手伝いもあったので、片づけはすぐに終わった。
その後に用事があるという姉を見送り、ようやく彼は一人になった。彼は小さく溜息をつき、部屋の中をぐるりと見回した。
テーブルの上には風呂敷包みがある。出がけに明子から持たされたものだった。
彼女は何度も何度も「寂しい」「いつでも来て頂戴」と繰り返していた。研究会の日になれば、嫌でも行くことになるのに、と、思い、彼は苦笑した。
窓側の隅に、四角い包みが置かれていた。彼はそちらに歩み寄り、包みのまま部屋の中央へ持って来た。
中から出てきたのは、昨晩行洋から見せられた碁盤と碁笥である。碁石もまだ未開封だった。
包み紙を綺麗に始末すると、彼は碁盤を改めて拭き、碁笥の蓋を取って、石をおさめることにした。
無造作にさわっていても質の違いははっきりとわかった。行洋の家で使わせて貰っていたものと比べても、随分と違うような気がする。今の自分にははっきり言って分不相応だと思ったし、実際にそれを自分で買うとしたら、一体何年かかるのかとも思った。
すべてをおさめ終えると、彼は黒石を一つ手にして、何気なく碁盤に置いた。
目を上げても、盤の向こうには、誰もいない。
彼は自分が今本当に一人なのだと思った。
今までも一人でやって来たつもりだったし、むしろそれでいいと思っていた。一人になりたいと思ったこともあった。
それでも白石を置く人のいない状況が、なんだか胸に迫る。
彼は盤上の石を見つめ、強くなりたいと思った。
これらの道具を使うにふさわしい力を身につけたい。そして容易に情に流されないような、強い心が欲しい。
強くなりたい。
改めて思うと胸がちりちりと痛むように感じられた。彼はその痛みを忘れるため、深呼吸をした。
胸の痛みは涙になって、彼の頬を伝い、落ちた。