『遠い星・20』
遠征から戻った楊海がひとまず自室へ戻ってみると、部屋は空っぽだった。
伊角に使わせていたベッドの上には、彼の持参した旅行鞄が置かれてある。ベッドに荷物が散乱しているところを見ると、片づけの途中で何処かへ行ってしまったらしい。
その様子を眺めつつ着替えを済ませると、楊海は訓練室まで降りた。
中をぐるりと見回してみると、あるところに人だかりが出来ている。彼はそちらに歩み寄り、中をひょいと覗き込んだ。
伊角が対局中だった。
どうやらリーグ戦ではなく、いつもの早碁戦のようだった。
隣にいた者に経緯を聞いてみると、どうやら伊角と『最後の一局』を打ちたいものが集まっているらしかった。
終局となり、片づけが終わると早々に次の対局者が座る。伊角は少しつかれてきたようで、小さく溜息をついていたが、姿勢を正して新たな相手との対局を始めていた。
しばらくの後に、伊角の負けで終局になると、また同じように次の対局が始まりそうになっていた。伊角は嫌な顔一つ見せていなかったけれど、楊海は後ろから『一旦休憩にしろよ』と、声をかけてやった。
その声に反応して振り向いた伊角の表情がぱっと明るくなる。
人だかりがなくなってから立ち上がると、彼は「帰ってたんですか」と嬉しそうに話し掛けてきた。
「少し前にな」
「いつから見てました?」
「今の前の対局から」
「どうでした?今の」
「そうだなぁ……」
二人は飲み物を用意し、適当なところに腰を下ろした。
楊海が対局を見ての感想を伝えると、伊角はそれを神妙な顔つきで聞いている。その様子を見ていた楊海は、この真摯な青年に対しては、こちらもやはりそれなりに真摯な対応をしないではいられないと、改めて考えていた。そしてそれはけして自分だけに限ったことではなく、あの緒方であっても、おそらく同様であろうと思われた。
楊海自身がプロになり、雲南省から北京へ出てきたのは、楽平とそう変わらない時期だ。そんな頃から、時には大人達に混じって駆け引きの仕方を学び、身につけてきた。勝負の世界に身を置く者としては、そうして積極的に生き残ろうとする姿勢こそが正しいということを、彼は今でも信じている。そして緒方もそういう姿勢を明確にしているからこそ、自分たちの付き合いは続いているのだと思う。
伊角はそういう自分たちの心を揺さぶるような純真さをまだ持ち合わせているように感じられる。自身の指導で成長する彼を見て、その様が面白いと思う反面、伊角の真っ直ぐな様子がどうにも眩しく、また、むずがゆく感じられることもあった。
明日帰ることになっているこの青年は、これからどんな風に成長して行くんだろうか、と、楊海はふと考えた。
今のような気性を持ち合わせたままで、一人前のプロとしてやって行けるのだろうか、それとも、世慣れた者達に囲まれ、揉まれているうちに、彼もまた汚れていくことになるのか。
楊海がそうして複雑な思いに捕らわれているところで、伊角が「あの」と声をかけてきた。
「あとで話したいことがあるんですけど」
「なに?」
「……たいしたことじゃないんですが」
「オレは今でもかまわないけど?」
楊海の言葉に、伊角は迷っていた。楊海がそのまま彼の決断を待っていると、その内低段の一人が伊角を呼びに来た。
「休憩は終わりみたいだな」
「……」
「そら、行ってこいよ」
伊角は何か言いたげに楊海を見返している。
「オレまだ荷物も解いてないんだ。一旦上に行ってから、また降りてくるよ」
「あ、……はい」
伊角は名残惜しそうな表情を見せながら、その場を立ち去った。
楊海はふと溜息をついて立ち上がると、ゆっくりと階段を上り、303号室へ戻った。
伊角が部屋へ戻ってきたのは、例のごとく訓練室の終了時刻を過ぎてから。戻ってきた彼はまず、シャワーを浴びに行き、濡れ髪のままで戻ってきた。
「おつかれさん」
と、声をかけると伊角は決まり悪そうに笑う。
濡れたタオルを洗面所に干し、ベッドに腰を下ろすと、伊角はまず溜息をついて、今日の経緯を楊海に話して聞かせた。
ベッドの上が散らかりっぱなしだったのは、片づけをしている最中に、楽平がやってきて、強引に彼を連れ出したからだという。
そして散らかりっぱなしだった荷物は、伊角が話をしている間に、すべて鞄の中へしまわれてしまった。
「それで、あの、……お話なんですけど」
「あ、ああ」
伊角が妙に改まった様子をしているので、楊海も何を話されるのかと緊張せずにはいられなかった。
「実は、……楊海さんの遠征中に趙石と賭をしたんです」
「……うん」
「それで……」
伊角の口の重いことから、大体のことは察せられた。楊海はそのまま伊角の言葉を待ってやった。
「賭けたのは、MDプレイヤーで、……ごめんなさい。取り返せませんでした」
楊海の顔を見ることもなく、返事を聞くこともなく、伊角は「すみません」と、頭を下げた。もともとMDプレイヤーを賭けに使ったのは自分だ。取られて惜しい気持ちがないでもなかったが、取られてしまったものは仕方がない。楊海自身も緒方からせしめたようなものなのだ。そのうち自分で買い直そうと思っていたところで、特に気に病んではいなかった。賭をしたのも、もう一ヶ月半以上前のことになる。彼の中では過去のことだった。
楊海は深々と頭を下げる姿に、彼がMDプレイヤーに関する一件をどんなに気に病んでいたのかを知った。
「……いや、まあ、いいよ。別に」
「でも」
「いいよ。賭けたのオレだし」
伊角は唇を噛んでいる。
「……じゃあさ、こうしようか」
伊角はがばりと身を起こした。その顔には、「なんなりとお申し付けください」と書かれているようで、楊海は吹き出しそうになる。
「なんですか。何でも言って下さい」
顔に書かれているとおりの台詞が彼の口から飛びだしてきたので、こらえきれず楊海は吹き出してしまった。ひとしきり笑った後で、再び伊角の顔に目を戻すと、やはり同じ顔のままなので、楊海はまた吹き出した。伊角は流石に呆れていた。
「オレ、真剣なんですけど……」
「わかってる。わかってるよ」
「はは」と声を上げて笑うのを仕舞いにすると、楊海は、
「プロになれよ」
と、言った。
伊角の緊張感が一気に増した。
「それでいいよ。今度は棋戦で会おう」
「はい」
伊角の返事には力がこもっていた。
国際棋戦で自分と会えるようになる前に、おそらく伊角は国内で緒方に当たる機会を得るだろう。
伊角は果たしてそこまで昇っていけるのだろうか。
楊海には正直なところ、よく解らない。難しいと思う反面で、彼ならその内にやり遂げるかも知れないとも思う。
彼自身最初はそれほど腕に自信があるわけでもなかった。それでも真面目とは言い切れない姿勢で今までやって来て、とりあえずそれなりにはなれた。自分よりも随分勤勉で、変に思われるくらい熱心な彼ならもしかすると、と、思うのである。
伊角にあったら、緒方は果たしてどんな感想を洩らすだろうか。
楊海はふと考えた。
今のところ想像がつくのは、口から飛び出す台詞はろくなものじゃないだろうな、と言うことぐらいだった。
翌朝。
早朝押しかけてきた楽平と本当に「最後の一局」を打ち、伊角は303号室を去った。
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『遠い星』もこれで一回り。1の時間まで繋がりました。
次からはプロ編になります。