key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『指輪・4』

「成田にいます」
 回線が向こうに繋がった途端、名乗りもせずにそう言った。
「じゃあ、しばらく待ってろ」
 そう言う声の後ろにはノイズが多い。どこか出先なのだろう。仕事などはなかったと思ったが。
 そう考えている内に、こちらの返事も聞かず、電話は切れた。
 ディスプレイを見て、おおよその到着時間を予想する。オレは預けていた荷物を受け取ると、カフェで時間をつぶすことにした。
 子どもなら外出も出来ないような時間である。電話をした時点で、こちらから呼びつけたようなものだ。
 沙織さんに何か言われないかとふと気になった。そして、もしかすると家の中で繰り広げられるであろう夫婦の会話を少し想像してみる。
 遅い時間の外出を咎められ、あの人が時間を気にしてイライラしながら沙織さんに応対するところなど思い浮かべてみたが、さっきの電話がどう考えても家からのものではないことを思い出した。無駄な想像に溜息が出た。
 頬杖を付いて、ふと窓の外へ目を向けようとしたが、見えるのは自分の鏡像ばかりだった。
 ガラス越しにもわかる夜の闇の中に、薄い影が浮かぶ。その左手の薬指にはプラチナの指輪が見えた。
 頬杖をはずし、左手を目の前で広げて、指輪をまわすように触れた。それは今朝、異国の彼の部屋で指輪を嵌めてもらったときの感触を反芻するような行為だった。
 あの時、彼の無骨で大きな手が丁寧に指輪をしてくれたことを思い出すと、軽くめまいを起こしそうだった。甘い思い出が消えてしまいそうで、指輪に触れた指をはずせない。もし、万が一奇跡が起こって、彼から本当に指輪を贈られるようなことがあれば、その場で心臓が止まってしまうかも知れない。
 そんなことを考えつつ、指輪をくるくると回していたら、あの人からその指輪を贈られたときに、何とも言えない気持ちがこみ上げてきたのを思い出した。
 あの人のことを思い出すと、時々胸が痛む。
 お互いに対して熱烈な愛情を求めてはいけないということを承知しているはずの関係に、時々愛がちらついて見えるせいだろうかと思う。誰にも言わないような我が儘をあの人にはぶつけられたし、それを許されることに甘え、喜んでいる自分がいる。
 指輪をあの人から強請るようにしてもらったとき、そして、いま嵌めている指輪をあの人からもらったとき、確かに嬉しかった。夜をともに過ごした時の満ち足りた気持ちもよく覚えている。そして、あの朝の別れ際の寂しさも。
 気持ちが揺れていた。

「もうすぐ着くから、出ていろ」と電話があり、カフェを出た。
 おおかたの便は終わってしまった時間なので、空港内も静まりかえっている。外へ出ても、人影はほとんどなかった。
 しばらく待っていると、あの人の派手な車が見えた。悪目立ちするので困るといつもは思うが、こういうときには便利だ。
 ちょうど良い位置に車が横付けされ、トランクが開けられる。荷物を入れて助手席に座ると、彼はすぐに車を出した。
 真っ直ぐに高速に乗るのかと思いきや、車は意外なところで曲がり、そのまま空港近くにあるホテルへと向かった。
 一人先にホテルの玄関で車を降り、駐車場から彼が戻るのを待つ間、もしかすると求められていたんだろうか、と、いう考えがふと浮かぶ。それで頬が緩みそうになるのは、やはり嬉しいからなのだろう。割り切った関係であっても、別にいなくてもかまわない、と、言われるよりは、いくらかでも必要とされた方がマシだと思う。しかし、やはりあまり多くを求めるべきではないのだ。お互いに、『一番大切にしなければならない人』ではないのだから。
 ロビーには、海外便の乗務員らしき人の姿が多くあった。
 所在なく隅のソファに腰を下ろしていると、キーを手にした彼がやって来た。
 すぐに背を向けた彼のあとを、オレもそのまま追った。

 部屋について最初にかけられた言葉は、
「何があった?」
 だった。
 そのまま黙っていると、
「彼に会ってきたんだろう?」
 と、彼は言った。
 オレは黙って俯いた。
「振られでもしたのか」
 彼は少し離れたところに座っていた。それを避けられているように感じ、悲しく思いながら、オレはただ首を横に振った。
「また言わなかったのか」
 ソファに身を預け、彼はあきれた口調で溜息をついた。
「お前は自虐的すぎるよ」
 煙草を取り出して火をつける様を眺めながら、オレは彼の方へ近づいていった。
「オレにはわからないな、そういう心情は」
「前に話したじゃないですか」
 目前に立ち、そう言うと、彼は上目遣いでオレを見た。
「一生、言わないんです」
 オレ達はそのまましばらく見つめ合っていた。
「なら、どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだ」
 彼の言葉に不意に動揺させられてしまった。何も言えずオレは視線をはずし、目を伏せた。
「会いたくてたまらなかったんだろう?一年は行ってなかったんじゃないか」
 オレは無言のまま、彼の言葉を聞いていた。
「会えて、嬉しかったんじゃないのか」
 嬉しかった。そう答えようと口を開いてはみたが、言葉は出てこなかった。
「思いばかり溜め込んでしまうから、そんな顔しかできないんじゃないか」
 愛想笑いをしようとするが、顔が固まったようになって、上手く笑えない。
「寂しくて、部屋に帰りたくなかったんだろう」
 胸の奥の方を見透かすような言葉に、ひどく動揺した。
「だから電話をよこしたんだろう」
 返す言葉がなかった。オレは立ちつくしていた。
 ゆっくりとその一本を吸い終えると、彼は立ち上がった。オレはただ、その足元を見下ろすばかりだった。
 不意に、右足が出た。
 突然の彼の動きにただ驚いていると、次には腕毎抱きしめられた。
 始めは柔らかだった拘束が、次第に強く、きつくなる。
 暖かで、切ない抱擁だった。
 彼は唇を重ねるでもなく、ただオレを抱きしめ続けている。
 木偶のようにただ抱きかかえられ、身を寄せながら、涙の込み上げてくるのを堪えようとも思わなかった。
 しかし涙は出ない。
 初めての悲しみのように、酷く痛々しい感情で満たされるばかりだ。
 どうしよう。
 こんな風に抱きしめられてしまって。
 躊躇い続けてぶらりと下げられたままの手を、胸の内からわき上がる欲求が強引に持ち上げて、彼の背にまわす。
 愛しているのかも、愛されているのかも、よく解らない。
 もっと強く抱きしめてほしいと思うのは、この人自身を求める気持ちがあるからなのか、それとも、ただ単に代償を求めてのことなのか、それももうよくわからなかった。
 ただ、「欲しい」と口に出すことが出来る相手は、この人の他にはいないのだ。
 あの人が欲しい。
 でも、この人も必要だ。

 抱きしめる腕に力を入れると、彼は求めに答えるように、オレの身体を更に強く抱きしめてきた。
 それはとても幸せで、いくらか不幸なことだった。

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今日のイベントで配り損ねたもの。
しかし、いまいち練り込み不足と言う気もする。